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「総理、総理はこの法案の成立をめざしておられるんですか?」 記者がこの法案と言ったのは通称女子トイレ廃止法である。 性別は自身の認識で決めるものであり、世にいうオカマやオナベの人達が不当な差別を受ける事が無いように考えられたもので、体は男でも心は女と言う人が堂々と女子トイレに入れるように、女子トイレを男女共用トイレにしてしまおうという法律である。 この法律ができるとトイレは男子トイレと男女共用トイレの二種類になる。 「この法案に関しては皆さんに十分なご議論をして欲しいと思っています。私は国会で皆さんがお決めになった事を忠実に実行するだけですので、私の意向をここで述べる事は控えさせていただきます」 総理を囲んだ記者会見で川畑はそう答えた。 内閣総理大臣である川畑の元に麦国のムーラ駐日大使が会見を申し入れてきたのは三か月前の事だった。 「総理、我が麦国では今、オカマやオナベに対する差別撤廃の動きが急速に進んでいます。法律制定にはまだ根強い反対もありますが、この差別撤廃は世界基準にしなくてはなりません。貴国で於いてもこの法律を作って下さい」 ムーラは言った。 「はぁ、しかし我が国では昔からそういう差別はありません。元々我が国の文化は歌舞伎の女形がいたり、男娼というのがいたりで、男だろうが女だろうがそのどっちでもなかろうが、皆尊重し合うというものでして、そんな法律を作るとかえって問題のないところに差別を創り出すようなものですからなぁ…」 「いや、貴国でも最近はそういう差別があると各所で運動が起こっているではないですか」 運動だと? それはお前らの国の運動家が裏で金を出し我が国のバカな連中と金しか頭にない連中をけしかけてやっているんだろうが。 川畑はラームの物言いに少し腹が立った。 「それは一部の運動家がどこからか金をもらってやっている事で、国民の殆どは彼等とは全く違う感覚ですよ。多くのキリスト教文化のようにそういう人たちを唾棄してきた歴史もありませんしね。何しろ我が国ではそういう方々が集まって楽しいバーを開いていたり、テレビでタレントをしていますからな。そういう差別等微塵もないのですよ」 川畑がそう言うと、ムーラの表情が変わった。 「総理、これは私の意見ではありません。麦国としての意向です。そこをお間違いの無いようにして頂きたい。私は麦国大統領の名代としてここに来ています」 「え、ええ。それは承知しています」 「それなら宜しいですが…。ところで、これまで我が国の意向に沿って政策を進めて来られた歴代の総理は長期政権でしたね。スキャンダルに塗れる事もなく引退後も安泰です。お互いの国を尊重し合える関係があれば間違いなく良い政治家生活を送れるでしょう。その逆で我が国と信頼関係が築けない総理はスキャンダルに塗れて失脚したり、不幸なテロ事件で命を落とされたりと、結論で言えば短命な政権で、不幸な亡くなり方をしてきた事をお忘れのないようにしていただきたいですね」 ムーラは笑顔で言った。 またこれだ。 こうやってこの国を脅し、これまでもずっとこの国を麦国の言いなりにさせて来たのだ。 我が国との信頼関係だと? お前の国じゃなくてお前の党の話だろう。お前ら民政党が不正選挙で麦国大統領の座を前のカード大統領から奪い、我が国の元総理をテロに見せかけて殺した事を俺が知らないとでも思っているのか? それにお前ら民政党が世界中で戦争を起こしている張本人である事など今や政治に関わるものの間では常識だ。 マスコミを金で買い、自分たちに都合のいい嘘を垂れ流して世界を操っている悪党のくせによくもまあぬけぬけと麦国大統領の名代だなんてぬかせるな。 まぁ、悪党らしい脅しだよ。 「ええ、では前向きに善処したいと思います」 会見後、自室に戻った川畑は秘書官を呼んだ。 ムーラの話をひととおり話した。 「また無茶苦茶な要求をしてきましたね」 「そうなんだよ。我が国民はあいつら野蛮人と違って、先ず第一に人を見下すという接し方をしない、そしてそんな差別など無い。あいつらいつもそうだが、自分が一番正しくて、自分らの文化を一番進んだ文化だと思っていやがる。手に負えんよ」 「で、どうします?」 「やらなきゃ短期政権に終わるか、スキャンダルが出るか、殺されるだとよ」 「え…。脅しじゃないですか」 「ああ。民政党のいつものやり口さ。実際、鍋さんは殺されたろ。俺は鍋さんが総理の時、外相やってたから横で見てたけど、公和党、特にカード大統領はこういう事をしなかったんだ。それが民政党の大統領になってからは、こういう脅しは何度もあった。でも鍋さんは一切乗らなかったんだよ。そして殺された」 「総理、どうします? こんな法案出したら保守層からの支持率は確実に下がりますよ」 「支持率? そんなものより、こんなものを法律にしたら国民生活に支障をきたすだろ。政治家にとっての一番は国民だ。支持率なんかどうでもいい。俺たちは何のために政治家になったのかって事だ」 この言葉を聞いて、秘書は感激した。 「総理…」 「何とかしてこれを潰さなきゃならんな」 「どうかご指示ください。私、秘書として全力でお手伝いいたしますから」 「うん、頼む」 これで良し。これであの秘書は俺の考えを各所で話して回る筈だ。 秘書が部屋を出て行くと、川畑は子飼いの議員である新家に電話した。 「ああ新家くんか、今日ムーラが来てな。うん。そうそう、それだ。その件だよ。そろそろ来るかと思ってたら来たよ。うん。それで実はちょっと相談に乗ってもらいたい。うん、結局はこの法律は作らなきゃならんのだよ、私もできるだけ永くこの席に座っていたいのでね。ははは。そうだ。で、誰かスケープゴートが欲しい。うん、スケープゴートだ。こういう案件だから女が良いな。誰かおらんかね。この役をやってくれるような頭の軽い女は。うん? 苗畑? ああ、あれか。うん、あれなら保守の爺にも多少人気があるしな。あれでいい。じゃあ、部会を作るから苗畑を加えてくれ。うん、頼んだぞ。うん? 俺か、俺の意向はあくまでも反対だ。反対と言う事で通す。それは秘書からマスコミにも流れる筈だ。これ以上岩盤支持層を失いたくはないんでな」 電話を切ると、今度は党の政調会長に電話を掛ける。 「ああ、川畑だ。差別撤廃に関する法案の部会を作ってくれ。細かいところは新家君に話してある。うん。で、その部会は必ず法案成立の方向へ向かわせるから。上がってきたらそのまま通して党の提案にしてくれ。え? うん、大丈夫だ。必ず成立の結論にする。なんとなれば座長一任にしてしまうから」 第三国のサポートを受けて、まるで他国の利益代表のような帰化人ばかりで構成されている野党第一党では、別の意味からこの法案を作ろうという動きがあった。 この国の国体を破壊するのが目的である。 その為におよそこの国の文化には馴染まない、類似の法案を提出しようとしていた。 マスコミ然りである。 今や日本のマスコミは完全に第三国に牛耳られ、その一方で情報ソースは麦国のマスコミからの垂れ流しと言う、悲惨な状態であった。 マスコミが大々的にこの差別問題を取り上げると、本来そんな問題など考えた事も、そもそも差別の意識さえ無かった国民も動揺し始めた。 この国の、人にやさしい国民性は、誰かが差別されて苦しんでいると言われると弱い。 少しずつ、苦しんでいる人がいるのならそういった法律も必要ではないかという風潮に世論が動いて行った。 実際は差別を受けているとされている当事者は誰も差別など感じず、それは当事者とは何の関係もない人間たちによる世論誘導だったが、善良でお人好しの国民はそれに気が付かない。 そして与党の中にはそういう法律が出来た際に創られるNPO法人の顧問になる人間が出てきた。 党内に美味しい話が広がると、反対するのは本当に国益や国民の事を考える少し変わった連中で、それはごく少数である。 そういう厄介な連中は次の選挙で公認を出さないと匂わせれば黙るものだ。 「女子トイレ廃止法案が与党の部会で反対多数の中、強引に座長一任とされた」 こんなニュースがネットを駆け巡ったのは一か月前である。 党の内規では部会で賛成多数である時に限って座長一任にできるという事になっていた。 しかし部会は反対多数。 本当ならここで法案は否決され、党としての案はできない筈である。 それが反対多数にもかかわらず座長一任とされた。 この、暴挙ともいえる強引な部会運営は、地上波のテレビでは一切報道されなかった。 マスコミは法案の成立に賛成という立場であり、その意向に沿うなら手続き上の問題等気にしないのである。 それがこの国のマスコミであった。 座長一任となれば、座長の胸三寸で法案作成へ向かわせる事ができ、政調会もあっさり通過した。 法案として党から国会に提出できる準備が整ったのである。 一方、女子トイレ廃止法案の強力な推進者は苗畑女史であるという事で苗畑は保守系のマスコミや保守にネット上ではさんざん売国奴呼ばわりされていた。 実際は、部会から政調会へ上がった案件は政調会長の一言で止める事が出来る。 それを何もせず通過させたのは政調会長であり、政調会長こそが戦犯なのだが、苗畑をスケープゴートにして進めるという事で新家がマスコミに既に手を打っていた。 川畑は状況が自分の思惑通りに進んでいる事に満足していた。 これで麦国も満足だろう。 女子トイレ廃止法が出来れば俺の麦国からの評価は上がる。 自然と長期政権になる。 麦国の思惑通りに動く俺が総理であるうちは、麦国は麦国で使いやすい俺の首を切るような事はしない筈だ。 俺に関する多少のスキャンダルは麦国が出てきて潰してくれる。 一方、あの法律が出来た事を前提に計画されているNPOは既に百を超えている。この顧問になっている党内の議員は美味しい筈だ。 全てにおいてウィンウィンだ。 後は、根強く反対している変な奴らを蚊帳の外にして、決めてしまえばいい。 党内拘束を掛ければ奴らもどうにもできまい。 奴らにとっても、苦渋の選択だったと言えば、支持者にも言い訳が立つ。 国会の外で反対運動している保守言論人は金で買うか。 後は、金に転ばない政治系ユーチューバーや運動家だが、そういう連中にどうにかする力はない。 この法律で割りを喰うのは国民だ。 公的機関から女子トイレを無くすなど普通に考えて有り得ない事だ。 だが、有り得ない事でも麦国の指示があればそうなってしまう。 女性には住みにくい国になるだろう。 だがそれも仕方がない。 俺たちを選挙で選んだのはその国民なのだからな。 その俺たちが何をやっても再選してくれるというのは、これが国民の意思だという事だろう。 それでいいんだ。 政治というのはそういうものだ。 そして俺は、本当は成立させたくなかったんだ。 そうだ、そういう事だ。 だが、国会の決める事だから、それは国民の意思と受け取り、実行しなければならないんだ。 川畑は、秘書官を呼んだ。 「実に残念だよ。こうなってしまっては、これを国会で潰すのは難しい。これも俺の力不足だ。国民に合わせる顔がない。俺は今国会限りで総理の職を辞任しようと思う」 「総理、何をおっしゃるんですか、それは違います。今回の事は全て私の力不足です。私の責任です。本当に申し訳ありません。私が辞表を出します。総理、この国には総理のような政治家が必要です。誠実で本気で国民の事を考える政治家が必要なんです。辞職などせずに引き続きこの国をお願いします」 秘書は泣きながら訴えた。 「君が辞める必要などない。君に責任などあろう筈がないじゃないか。君はよくやってくれた。俺が見込んだ男だからな。俺に力がなかっただけの事だ。君にはこれからも次の総理を支えていく義務がある。これは能力のある人間の義務だぞ」 「総理…。駄目です。私は総理以外誰にもお遣いしたくはありません。総理でなければお遣いしたくないんです。どうか、どうか、お辞めにならないで下さい」 川畑は、目の前でなく秘書を暫し見ていた。 「そうか、そう言ってくれるのか。じゃあ、俺の為にもう少し君の力を貸してくれるか」 「総理…」 秘書が出て行ったあと、川畑は一人考えた。 俺は政治家としての道を踏み外しているだろうか。 川畑は首を振った。 そんな事はない、これが政治家の王道だ。
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