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ぴち、ぴち、ちゃぷ、ちゃぷ、らん、らん、らん。
調子外れの声が、真依子の耳朶を優しく叩いた。声の持ち主は、真依子のやや前方で、水たまりに勇ましく踏み込んでいく。レインコートを着た、小さなてるてる坊主のような後ろ姿を、真依子は微笑ましい気持ちで見守っていた。
彼女の歌に合わせ、真依子も昔親しんだ「あめふり」の歌を口ずさむ。幼い時分に覚えた歌詞は曖昧で、正確性としては彼女と同程度だった。その曖昧さすらもどこか美しさを持っているように感じて、真依子は彼女……娘の遥に、正確な歌詞を教えようとは思わなかった。覚えたければいずれ覚えるし、正確に覚える必要もないのだ。
歌詞の通り、ちゃぷ、ちゃぷ、という音が、遥の小さな長靴から響く。あまりにも水溜まりを好む彼女の為に買ったさくらんぼ柄の長靴は、彼女が選んだお気に入りの逸品だ。
あめ、あめ、ふれ、ふれ。
遥の歌を聴きながら、真依子は雨にまつわる歌を思い出してみる。いくつかの童謡の他には、昔聞いたポップスが思い出されて、自然と鼻歌を口ずさんでいた。保育所からの帰り道には、綺麗な紫陽花が咲いている。
「むらさき! あお!」
「あじさい、って言うお花だよ。綺麗だね」
色とりどりの紫陽花を指差して色の名前を言っていく遥に、真依子は答える。遥は紫陽花をまじまじと見つめ、色とりどりの花弁に興味津々といった様子だ。
「はるちゃんの、すきな、むらさき!」
紫陽花のうちの一つを指差して、遥が言う。鮮やかな紫の花弁が、誇らしげに水滴を弾いていた。
翌朝。保育所へ登園する準備を整え一目散に玄関に向かった遥は、さくらんぼ模様の長靴を選んで履こうとしていた。
「また雨が降ったら履こうね」
真依子が言うと、遥は頷いて、渋々といった様子でさくらんぼの長靴を諦め、スニーカーに足を入れた。
「あめ、ふるかなぁ」
保育所への通園の途中、遥がそう呟いた。どうやら、さくらんぼの長靴はまだ諦めきれていないらしい。もう梅雨入りだ。雨が降る日はそう遠くは無いだろう。
「きっと、近いうちに降るよ」
物心ついてからというもの、雨が降るのを楽しみにしたことなどあっただろうか、と真依子は思う。記憶の限りでは、雨を楽しみに待っていた事はない。成長すればするほど、雨の日というものには不利益ばかりがついて回ってくるような気がしてしまっていたことに気が付く。
いつか遥が思い出せなくなってしまっても、真依子は、雨の日に遥が水溜まりで遊ぶ水音も、てるてる坊主のような後ろ姿も、お気に入りのさくらんぼの長靴も、一緒に見た紫陽花の鮮やかな紫も、ずっと覚えているだろうと思った。そして、雨の降る日には必ず、そのことを思い出すだろう。
そう思うと、雨の日も楽しみになるような気がして、真依子は遥と一緒に、空を映す水溜まりを飛び越えた。
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