後日談、敬具

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カラン、と鈴を鳴らして扉を開くと、その先に広がっていたのは、至って普通の小洒落たカフェーだった。 異国情緒漂う色とりどりのランプ、革張りや、臙脂色の天鵞絨のソファ、何時を指しているのかわからない壁掛け時計。 正に、あの日見たままの空間だ。 ただ、違うのは.... 「いらっしゃいませ」 盆を持って、駆け寄ってきた女給が言う。 女給。 そう、あの日の静けさがまやかしであったかのように、「伊江須堕泥」には、きちんと客も、従業員もいたのだった。 驚き固まる私をよそに、彼女が微笑みを浮かべたまま続ける。 「2名様..でよろしいでしょうか?」 2名? 「え、いや」 「あぁ、2名で」 突如頭上から聞こえてきた声に当惑していると、肩にポン、と手が置かれた。 心臓が掴まれたようにひりつく。 前にもここで、こんな事があった気がする。 意を決して振り返ると、そこには背の高い、鼠色の背広を纏った紳士がいた。ふと気づく、彼の片手には何か乗せられていた。 「あ、これ」 「落としましたよ、お嬢さん」 彼はそう言って、私の手を取ると、持っていた紫色のリボンを乗せた。 私のリボンだ。 鏡を見た時、頭が寂しい感じがしたのはこれか。 「ありがとうございます!」 親切な方が拾ってくれてよかった。深々と礼をし、手を引こうとする。 しかし、離してくれない。 「あの..」 「これも、何かの縁だ。お嬢さん、一杯ご馳走しますよ」 そう言って手を撫でる、男の人。 その手つきに戸惑って、思わず後退りする。足が一歩店内に踏み込む。 その瞬間、床が沈んで、一気に急降下するような錯覚を覚えた。ヒッ、と小さく悲鳴を上げる。 「お嬢さん?」 「う、ぁ......結構です!」 私は怪訝な顔をする紳士の横をすり抜け、もつれる足で逃げるように、階段を駆け降りた。
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