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夏だと言うのにやけに涼しい日。私と和彩は河川敷にいた。私は座っているが、和彩は立っている。セーラーのスカートが風にはためくのを意味もなく眺める。
「ねえ、もうやめよーよ」
私はカミソリを片手に奮闘している和彩に声をかける。和彩がカミソリを手にしてからもう30分以上経つが彼女の美しい左手首にはよく見ないと分からないような赤い線がうっすらと入っているだけだ。
和彩のいつもは整った顔が今はぐちゃぐちゃに歪んでいる。
「もうやめよ?」
私はもう一度声をかける。和彩は震えているくせにカミソリを手放そうとはせず、頑なに首を横にふる。
「いや。死ぬの。死んで、マサシくんのとこに、いくんだから」
マサシくんというのは最近亡くなった芸能人だ。色んなドラマに出ていたし、歌もうまかった。しかし一度も会ったことない人によくもまあここまで入れあげるものだなあとある意味感心する。
「マサシくんは病気だったわけじゃん。自殺したら一緒のとこには行けないんじゃないの」
どこかで聞いた受け売りを話す。私は信心深いほうではないが、マサシくんが大きな病気をしたときにいつか来るだろう日に備えてこうして言葉を用意していたのだ。
「そ、それでもぉ……マサシくんいない世界で生きていたくないよぉ……」
分かりきっていたことではあるが、私の存在は彼女の生きる理由にはならない。
「すぐ追いかけなきゃ。マサシくんの後をすぐ追いかけなきゃ」
和彩はマサシくんを知ってから、芸能界に憧れ将来はどこかのプロダクションに入るんだとよく言っていた。そしていつか共演するのだと。彼女になりたいとか妻になりたいとかそんなことは望んでいないようだった。和彩はマサシくんの輝きに憧れ、彼の姿をいつも追っているようだった。私はマサシくんに感謝をしていた。投げやりに生きているように見えた和彩が、マサシくんの歌やドラマで泣き、笑い、やりたいことを見つけ。だからこそマサシくんが大病を患っていると知ったとき、彼がいなくなったら和彩はどうなってしまうのだろうと病人そっちのけで案じた。そして結局こうなっている。和彩は泣きながら手首を切ろうとしている。そんなんじゃ死ねないよ、とは教えてあげない。飛び降りなんかされたら目も当てられない。
川のせせらぎ、虫の声、和彩の嗚咽。
和彩が痛いこと苦手でよかった。
「マサシくんができなかったことをやろうよ、和彩」
「な、なに?」
「マサシくんのやりたかったことを全部和彩が代わりに叶えるんだよ、マサシくんのことを追いかけるってそういう方法もあるんじゃない?」
和彩は無言で私を見つめる。
「そして和彩がいつか寿命で亡くなったとき、マサシくんに追いつくの」
「追いつく」
「そうだよ。だから。生きようよ」
和彩はぎゅっと唇を引き結んでいる。綺麗で可愛い和彩。彼女が死んだら私だって後を追う、確実な方法で。
和彩の答えを待ちながら、私はマサシくんのことしか見えていない彼女を遠いなあと感じている。死なれてしまったらもっと遠くなるのかな、それとも逆に心の中だけにその存在をしまえるから、近くなるのだろうか。
和彩はまだカミソリを握っている。
私だってずっと和彩を追いかけているのに。
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