序章・ラジオとの出会い

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序章・ラジオとの出会い

 赤錆に覆われたアパートの外階段に足音が響く。それが何故か懐かしく感じた俺は、このドアの向こう側に止まってくれることを祈って見つめていた。 仕事の依頼かと思ったからだ。 案の定そのドアのチャイムは鳴った。 「あっ、ラジオか?」 トアが開いた瞬間俺は又、ソイツが気にする言葉を吐いていた。 「又か? 全くお前ってヤツは」 アイツはそう言いながらスリッパに履き替えた後、事務所の奥にある妻の遺影に手を合わせていた。 俺がアイツをラジオと呼ぶには深い事情があった。それにはある警察の隠語が関係していた。  警視庁の捜査一課は皇居のお濠を望む桜田門前に聳える庁舎の六階にある。 かつて新庁舎と呼ばれていたように、旧庁舎も存在していた。 相棒だった定年退職した先輩から、階段を駆け上がるとすぐ右手に並んでいたデカ部屋の話を良く聞いていた。 そこが花の捜査一課のメインストリートだったそうだ。 今の庁舎は名物のデカ部屋は姿を消した。 それでも六階の中心は捜査一課なのだ。  大部屋は各係ごとに衝立で仕切られていて、デカ部屋の名残がみられるそうだ。 警察官だったら誰でも憧れる警視庁捜査一課。 俺も御多分に漏れることなく其処を目指していた。 だから尚更先輩を尊敬していたのだ。  俺はその人から捜査のイロハを学んだ。 だから退職後も何かと相談にのってもらっていた。 『お前さん。そのくらい自分で考えろ。もう新米じゃないんだから』 ある日お目玉を食らった。でもそれは愛の鞭だった。先輩は俺を見放したのではなく、育て上げたと自負していたのだ。 『慕っている部下もワンサカいる。皆凄腕だって言っているのに、何時までも俺を頼っちゃ他の連中に示しがつかないだろう』 『凄腕ですか?』 何かこそばゆくなった。誉め言葉と言うより、お世辞だと思っていたのだ。  言われ始めた時期、まだ先輩は現役だった。 とある誘拐事件を共に解決させたからなのだ。 だから俺の手柄ではないのだ。 それはアパートに遊びに来ていた少女が引っ越し途中の男性の部屋に引きずり込まれ、後に遺体で発見された惨たらしい事件だった。 その男性に目を着けたのは先輩だった。 引っ越しは予定通りだったので見落とされていたのだ。 『遺体の腐敗臭だ』 男性が移り住んだアパートに踏み込んだ時、俺は思わず言った。 遺体には引っ越しの際に使用したであろう布団圧縮袋が幾つか重ねてあった。 でも、僅かに漏れた臭いでピンときたのだ。 きっと男性はその臭いに慣れっこになっていたのだろう。 だからやや緩慢になっていたのだ。 それを先輩が褒め称えてくれたのだ。 俺を皆から慕われるように仕向けてくれたのは間違いなく先輩だったのだ。  だから俺は忘れない。 先輩から教えてもらったデカの勘と洞察力が難事件を解決させる糸口だと言うことを。 現場百辺は当たり前、靴底を磨り減らしながら足しげく事件の起きた場所へ向かったのだ。  110番は各都道府県の警察本部の通信指令課に繋がる。 携帯電話からは、キャッチした中継局の地域の警察に繋がる。 県境で通報した場合、隣の県の指令室に繋がるケースも良くあることだった。 この事件もそれだった。 『埼玉県警からの連絡で、ラジオだそうだ。手の空いているヤツがいたら行ってやってくれ』 『又ですか?』 俺は苦笑いを浮かべた。 ラジオと言うのは無銭飲食のことだ。 無銭を無線に表した隠語だ。 携帯電話が普及し始めてこの手の電話が良く掛かってくるようになったからだ。 俺の勤務先は東京でも、比較的に埼玉と近かったのだ。 『なんなら埼玉県警に行ってもらっても……』 俺はそう言いながらもメモを取り、足早に現場に向かおうと大部屋から飛び出した。  『おっ、パトロールか?』 その時正面玄関にいたミニパト乗務の婦人警官に声を掛けた。彼女は交通課に勤務していた。 その当時の採用試験は男性が八回あるのに対して女性は一回しかなく、まさに紅一点の存在だった。 実は俺はこの女性に惚れていた。 野郎ばかりで花のない職場だから有り得ない話ではないのだ。 『はい』 彼女が認めたのを良いことにして、パトロールに便乗させてもらうことにした。口実なんかないので、あのメモの場所を目指すことにした。 『よろしいのですか?』 『俺一人だからですか?』 『はい……』 『ま、貴女と二人ってことで……』 俺は適当に誤魔化した。 こんなチャンス滅多にない。だから適当に言ってみたのだ。 彼女だって迷惑だろう。 きっとミニパトは、二人で常務するのが決まりのはずなのだから…… 『あの……、本当は乗務を終えて戻ってきたばかりなのです』 『えっ、そうだったのですか? 俺はてっきり……』 そう言いながらも、俺は強引にミニパトに乗り込んだ。 『出発進行!!』 彼女は目を白黒させたがすぐに発車してくれた。  俺達はまず、通報のあった店へ行った。 でも其処に店主は居なかった。 『主人なら食い逃げの犯人を追い掛けて行きましたが』 どうやらその店は夫婦で店を切り盛りしているらしい。 俺は奥さんの指し示した方角に足を向けた。  『彼は無銭飲食じゃないと言っていますが、財布を持っていないのですよ』 店主はそう言いながら、容疑者を引き渡した。 『だから財布を忘れただけだって、家まで行けば解るんだ』 『その家は……』 『あの橋の傍にあるアパートです』 其処は東京。まさに県境だったのだ。 彼の話によると、実はそのアパートに財布を取りに行こうとしたのだ。 それを逃げたと勘違いした店主に捕まり、彼の携帯電話から110番通報をしたとのことだった。 その頃はまだ中継基地はそんなに多くなく、電波の通りの良い箇所から掛けたのだ。 だから埼玉県警に繋がってしまったのだった。  『あらっ、これは?』 店の前に戻って来た時彼女が言った。 通路脇に何かが光ったらしくて目を向けてみつけたようだ。 『これ、もしかしたら貴方の財布ですか?』 彼女がハンカチでそっと持ったそれをラジオ容疑者は手に取った。 『現金が抜かれている!?』 彼はがっかりしたように膝を着いた。 『この人はどうやら無銭飲食ではないようですね』 店の脇の通路で見つかった財布には小銭しか入っていなかった。 それが何を現すのか、店主も理解したようだ。 『これ、お前のか?』 それでも問い質す店主に向かって彼は頷いた。 『だから俺は無銭飲食じゃないと言っていたんだ。ポケットに無いと解った時、家に忘れたんだと思ったんだ』 『きっとスリに遣られたんだな。被害届を出しに警視庁まで来てもらうけど……』 俺が言った途端に、彼の顔が強張った。  『コイツは暴走族で、だから俺は捕まえて欲しかったんだ』 店主は自分の行為を正当化する発言をしていた。 『お前暴走族か?』 『彼女が出来て足を洗ったんだ。でも皆解ってくれなくて』 彼は項垂れていた。 (あっ、だから光ったのか) 彼女が拾った財布には暴走族特有の光物が施されていたのだ。 でも俺はそれに目もくれなかった。女性らしい細やかな気の配りに俺は感服していた。 それと同時に、元暴走族だと言うだけで後ろ指をさされる彼が気になって仕方無くなっていた。  俺はそれからと言うもの彼の彼女をも含めて相談相手になっていた。 真面目に働きたいと彼は言った。 でも地元では周りの目があり、雇ってくれる所は限られていた。 食器洗いくらいが関の山だったようだ。 店主も後ろ指を指されたくなかったのだ。 人手不足だから雇うけど、人目があるから手荒れなどで誰もが嫌うバックヤードに押し込めていたのだ。  俺も彼女を誘って良く出掛けるようになっていた。 そう、あの婦人警官だった彼女が恋人になってくれたのだ。 俺は有頂天になって、彼女を紹介したくてしたかなかったのだ。 彼も、無銭飲食の濡れ衣を脱がせてくれた彼女に感謝していると思っていた。  『今度結婚することになったんだ。式に出席してくれないか?』 アイツが嬉しそうに言い出した。 『えっ、俺が……』 俺は暫く考えてから首を振った。 『俺の式なんかに……アンタの経歴に傷が着く』 彼はそう言って俯いた。 『違う。反対だ。俺なんかが出席したら彼女の両親が疑うだろう? 警察の厄介になったとか痛くもない腹を探られかねないからな』 『そんな……、気にしないでくださいよ。皆知っていますので』 彼はそう言った。 でも俺はその目に光った涙を見逃さなかった。 (泣いているのか? 俺も泣きたいよ。お前は本当にいい奴だな) 俺は彼の心遣いが嬉しくてたまらなかったのだ。  ところが、ある傷害事件の共犯者とされた人物が送検されて来た。 顔を見て驚いた。 あのラジオだったのだ。 『あの事件だったら、コイツにはアリバイがあるはずです』 俺は言い張った。 『電話があったようだな。でもそれは事件現場のすぐ近くだそうだ。お前はコイツに騙されたんだよ。暴走族の頭だから、顔を知らない奴はいないんだ』 その一言で俺は黙ってしまった。  犯行時間直後。 現場近くの道で、携帯電話を掛けている人が目撃された。 丁度その頃。 俺に電話があった。 『もしかしたらアイツは其処で掛けてきたのか?』 俺のその一言が仇になった。 事件の真相は闇に包まれていた。 ホンボシが共犯者として名前を上げたので逮捕しただけだそうだ。 勿論俺は意義を申し立てた。 アイツが……、奥さん思いのアイツがこんなことをするはずがなかったからだ。  アイツは、どうやら騙されていたようだ。自白に追い込むための汚ない手を使われて……。 ホンボシとアイツは暴走族からの仲間だった。 頭のアイツが抜けたことがショックだったホンボシは自暴自棄になっていた。 だから遊ぶ金欲しさに犯罪を重ねてしまっていたのだった。 そして罪を軽くする目的もあって、アイツの名前を共犯として挙げたのだ。 犯行現場近くにアイツがいたのを利用したのだ。 偶然か必然か解らないが、ホンボシにとっては罪を背負って貰う格好の人物だったのには違いなかった。  でも俺が幾ら無実を訴えても信じてもらえなかった。 そしてアイツに俺がアリバイを覆したと教えた。 勿論嘘っぱちだ。 『もしかしたらアイツは其処で掛けてきたのか?』 俺のその一言をアイツにぶつけて、味方は誰も居ないことを悟らせたのだ。  裁判の結果アイツは服役することになった。 弁護士が自白しても裁判で覆せるからと、無実を訴えていたアイツを説得した結果だ。 それだけは辞めてほしいと思っていた。 でもアイツは自供してしまったのだった。 そして、それを裁判官は重くみたのだ。 ホンボシは執行猶予が付いた。でもアイツは罪を最後まで認めなかったと言う理由で刑務所に入れられたのだった。  彼女はアイツの彼女を心配した。 『結婚するまでの間、熊谷に住みたい』 彼女は突然言った。 『あの人の奥さんが心配なの。アパートを引き払って熊谷に越したそうだから』 『引き払うって言うより追い出されたみたいだね。でもどうして熊谷なのかな?』 『私も良く知らないの。でも何故か気になるの』 『解った。でも結婚したら家族寮だよ』 俺の言葉に彼女は頷いた。 警察には家族寮と、俺が住んでいるような独身寮があった。 だから俺は当然のことを言ったつもりだったのだ。  彼女は星川通りから一つ入った場所にあるアパートと契約した。 そしてアイツの奥さんを見守りながら熊谷で暮らし始めた。 まだ結婚していない俺は休日をそのアパートで過ごすことにした。 勿論男と女の関係などもっての他だった。 俺は傍に彼女がいるだけで嬉しくて堪らなかったのだ。  アイツの奥さんは本当に素敵な人だった。 美人で気立ても良くて、アイツが惚れ込むはずだと秘かに思っていた。初めて会った時、何故か気になった。誰かに似ていると思ったのだ。 アイツは確かに暴走族の頭だ。 そんなヤンチャなアイツを変えたのが彼女だ。 親身になって、真面目に生き抜く力になろうとしてくれたのだ。 だからアイツは抜けられたのだ。 彼女思いのアイツが出した答えがそれだったのだ。 『本当は怖い。彼女に何かあるか解らないから……だから頭だったことを後悔している』 アイツは常日頃からそう言っていた。 だから、暴走族仲間と組んで障害事件など犯すはずがないのだ。
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