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ひとがしぬといきかえらない
おぼろげながら知ったのは10歳。
いつも乗せてくれたあたたかいヒザはもうないのだと思った記憶だけを鮮明に覚えている。
思えばその時から、私は死について考え、恐れ、憧れ、そして囚われているのだろう。
ひとはしぬとほねとはいになる
火葬場から出てきたそれは、夢の中にいるようで現実離れしていて、うねうねと曲がった木の箸で、普段いつも叱られていた「ハサミっこ」をして小さな壺に移しても、とても写真の主であるとは思えず、もう存在しないのだとはどうしても思えない。
ひとはしぬとおわる
どんなに願っても現れることはなく、化けて出てくることもなく、連れて行かれることもなく、ただひたすらに、一方的に虚しく想い続けるしかできない。
ひとはしぬとわすれられる
思い出をたどっても面影を追い求めても、年を取らない写真以外、日々の生活に押し流され忘却の海へ還っていく。
呼ばれることもなくなった名前は、墓誌に記されることでのみ主張を許されている。
ひとはしぬとなにもいわない
死ぬ瞬間、何を思いましたか。
誰かを恨みましたか。
後悔しましたか。
痛かったですか。
伝えたいことはありましたか。
満足でしたか。
年齢を重ねて、様々なことを学習してきた。
死因も死に方も死なない方法も人並みには学習してきた。
けれど、頭ではわかっていても心が納得しないこともある。
そう、実感がないから。
大好きなヒザに乗る日が突然こなくなり、大好きな大きな手を握れなくなる日が突然こなくなり、生命の糸をいきなり切られた人間の家族は、みんなこうして期待し続けているのだろうか。
またふっと、すりガラスが開いて
「おいで」
と、大きく手を広げてくれるのではないかと。
ベッドから起き上がって
「お父さんは強いから大丈夫だよ」
と笑ってくれるのではないかと。
その時、私の頭の中で私は小さな子供で、そうか、と思う。
いないのだと。
そしてまたしばらくすると同じように期待する。
そうして40年が経った。
身体中を切り、睡眠薬を飲んで入浴し、向精神薬を大量に飲んでも死ねなかった私は、それでも死について考え、恐れ、憧れ、そして懺悔し続ける。
これから先10年20年、死が私を迎えに来るまでずっと、私は死に囚われて生きるだろう。
大好きな人が生きられるはずだった残りの人生の苦しみと共に。
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