海軍省

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海軍省

宮城(皇居)の堀の端に官省庁の集まる霞が関がある。その一角に海軍省があった。門の外にタクシーをとめさせ、俺はおりた。そのフォードが行きすぎるのを待って俺は海軍省の門をくぐった。 「二等巡洋艦『遠野』乗員亜月海軍大尉であります。お召しにより出頭仕りました」 受付でそう口上をのべると、白い略式海軍服を着た中年の男が顔を上げた。 「軍務局に」 ただそれだけ言われた。軍務局の大きな部屋に入ると、少し待てと粗末な長椅子に座らされた。茶も出ないままそのまましばらく待つと、おおいこっちへと手招きされた。そのまま誘われるようにそこに行くと、デスクに山積みになった書類のなかからひとのよさそうな男の顔がのぞいた。 「所属姓名階級を言い給え」 「は。大日本帝国海軍二等巡洋艦『遠野』乗員、海軍大尉亜月克彦であります」 俺はきちんと直立不動でそう答えた。なんかえらそうだなこいつ。ひとがよさそうなのは外見だけか? 「わたしは課長の粕谷だ。本日出頭してもらったのはほかでもない。きのう鎮守府に提出された書類に不備がある、と申し伝えるためである」 「おっしゃる意味がわかりません」 そんなはずはない。俺はきちんと書類をそろえ、まして前日まできちんと確かめたんだ。ていうかそんなの昨日の今日で早くないか?それに書類の不備だなんて、あまりにもとってつけたような理由って、おかしいぞ? 「艦の補給要求が、おかしいと指摘されておる」 「どなたにですか?概算要求はすでに海軍司令部主計課で承認されているはずです。どこのどなたがべらぼうな横やりを?」 「べらぼうは言い過ぎだ、亜月大尉」 そういって課長の粕谷は笑った。笑ったら商売とにらめっこは負け、と頭に浮かんでしまった。 「どういうことでしょう?」 「つまりもう少しまけてくれと言っておるんだ」 「削れ、と?」 「景気がいいのも欧州戦争が終わるまでだ。近ごろは物価も上がり、景気も後退してきておる。軍の予算も縮小してな。こいつもまた戦後不況ってやつさ」 欧州大戦が終結し、停滞した欧州市場は復活してきた。日本からの輸出はそれにともない縮小する一方、内需も景気後退と物価高で芳しくない。だいたいそんなときにでかい艦を作り過ぎてるからだ。それに航空機なるものの開発費に金が要るんだろう。新造艦とはいえ、しょぼくれた二等巡洋艦に出す金はないってとこか。 「それは困ります。補給は艦の生命線です。乗員の命にもかかわります。一歩も引けません」 「そう言うと思った。きみの艦長には言ってある。交渉だ。三、四日ほどわたしにつきあってもらおうじゃないか。それまでは逃がさないよ」 つまり予算獲得か、減額か、ここで喧嘩しようってことだ。あーあ、ついてねえや…。 ――とらえてみれば そのてから ことりはそらへ とんでゆく 清子の声が聞こえてきちまった。ああ、俺も逃げてえな。 それから毎朝海軍省に出仕することになった。予算の見直しをさせられるんだが、まあこっちも鬼じゃない。削れるところは削ろう。お国のためだ。しかし艦の補修費や修繕費、ペンキ代までケチられるわけにはいかん。そこは何としても死守しなければ。 「近ごろは米がさ、べらぼうに高いんだよ」 課長はそう言って頭を抱えた。富山の方じゃ米騒動まで起きたって話を聞いた。それほどコメの価格は高騰している。ゆうべ佐代子さんが暗い顔してそう言った。家業の油もどんどん値上がりしている。儲けられそうな気もするが、逆に需要が落ち込み、そうすりゃ問屋なんか余計な在庫を抱え四苦八苦だ。 家に帰っても予算の見直しでまったく遊ぶ暇もない。俺は主計課の将校じゃないんだぞと何度も腹を立てて、そのたびインクのビンを倒し、俺の部屋はひどいことになった。 「克彦さん、お客さまよ」 階下で佐代子さんの声がした。俺にお客?こんな時間にいったい誰だろう?玄関に行くと、そこにはあの海軍省の粕谷課長が立っていた。 「やあこんばんわ。近くまで来たんで、どうかね、ちょっとつきあわんか?」 「いまですか?」 「さよう、車を待たせている。着替える時間くらいはあるがね」 つまり俺をどこかに連れて行くつもりだ。着替えろとは料亭かどこかだろう。こいつ、酒席で俺に予算の減額を迫るつもりか?いいだろう、受けてたってやる。 俺は急ぎ洋服に着替えた。軍服じゃないのは、課長の粕谷が軍務服ではなく洋服を着ていたからだ。ソフト帽を目深にかぶり家を出ようとした。 「あれ?克ちゃん」 「ああ清子、どうした?」 「おはぎ作ったから持ってきたの。どこかに出かけるの?」 「ああ、喧嘩しにな」 「なにそれ。ねえ、遅くなる?」 「わからん。なんでだ?」 急に清子はしおらしい態度になった。 「うーん、ちょっと話を聞いてもらいたくって…」 「話って?ここじゃ言えないことか?」 「まあその何ですか…」 なにか煮え切らない清子の態度にちょっと違和感を覚えた。なんでもあけすけに話すやつなのに、急にどうしたのか、まるで別の人間が乗り移ったかのようだった。 「話は帰ってから聞く。いいか?」 「うん」 おはぎを包んでいるんだろう風呂敷包みを抱えて、足早に清子は俺の家の中に消えていった。後には清子の淡い体温だけが残っていた。
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