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舞い踊る
中年の芸妓が三味線と唄を受け持ち、半玉と呼ばれる若い娘が太鼓をたたく。小春は扇を花や景色に見立て、曲に合わせて舞っている。その舞いは指先までしっかりと計算されたような動きで、めりはりがあり美しかった。
舞いが一段落した後、また春子は酌をして回った。
「とてもきれいな踊りでした」
春子にそう言うと、一瞬戸惑う仕草を見せた春子だったが、また伏目がちに俺の杯を見ながら酌をしてくれた。
「亜月さま、舞と踊りは違うんでござんすよ」
女将がおかしそうにそう言った。
「ちがう?舞と踊りは一緒じゃないのか?」
「まあお若いからお知りになりませんか。舞いは能から出たもの、いわば静に対し庶民のあいだから沸き起こった振りを動とするのが踊りなんですよ」
「つまりゆっくりとしたやつが舞で、かしましく動くのが踊りってことか」
「まあそんなとこですかね」
春子が扇子のかげで笑っていた。俺はなんだか恥ずかしくなってしまった。
「もの知らぬ無粋男を虐めるのはそのへんばして。こいつは海軍のなかでもずば抜けて奥手のやつだっでん、なかなか教育のしようもありもはん」
「へえ、無粋な奥手ねえ…なあるほど」
「おや春子、腑にいったかい?」
粕谷がおかしそうに春子を見てそう言った。まだ春子はクックと笑ってやがる。
「はい、もうたくさんと」
「じゃあお酌してやんなさい、その無粋な青年に念入りにね」
おいおい、なんてこと言ってんだこのオヤジ。念入りってなんだ?
「じゃあはい」
「え?」
「いやですわ。盃をめぐんでくださいまし」
「あ、ああ…」
俺は俺の持っている杯を春子に渡した。
「はい」
「え?」
「いやですね。注いでくださいませんか?」
「あ、あああそうか」
俺は少し震える手で朱塗りの銚子を盃に傾けた。とろりとした液体がやはり朱塗りの盃に満ち、ぼんやりと春子の顔を写していた。
「おじょうず」
そう言って三口でその小さな盃の酒を春子は飲みほした。
「はいご返杯」
そう言って俺から銚子を奪うと、盃を俺に突きつけた。
「え?これで」
「あらお嫌?」
「嫌じゃねえけど」
「じゃおひとつ」
そう言って春子は俺の盃になみなみと酒を注いだ。こぼれそうになるそれを必死で支え、中腰のおかしな格好でそれをすすった。
「おいおい、一張羅なんだぜ、これ」
「こぼしたら染み抜きでもしてさし上げようと思いましたのに」
「いやあ、すっかり亜月くんは春子に気に入られたようだね」
ニヤニヤしっぱなしの粕谷がそう言った。すっかり俺をだしにして酒を飲んでいるって態だ。
「春子さんは売れっ子で、じゃっどんなかなか靡(なび)いちゃくれもはんちゅうのがもっぱらの評判で」
「ただの野暮天をからかってるだけさ」
そうして俺の慰労という名の行事は終わった。なに食ったかも覚えておらず、ただいいかげん弄られたという思いしか残らなかったが、それでも春子の姿が頭からしばらく離れなかった。
次の日は朝早くから海軍省に出向き、主計課の隅を借りて常備品目録の精査にあたっていた。それによると常備品はなくなる前に補充するということが徹底されており、それによる重複も多く、ひどいものは艦載できない場合に限っては備蓄倉庫に回され、やがてその所在もうやむやにされるケースが山積されることがわかった。
「こいつが無駄の原因か…」
原因がわかれば対処の仕様もある。俺は不必要な備品を目録にして軍務局の粕谷に提出した。
「驚くほど早かったね。さすが商家のご子息だ」
「几帳面な記録係がいたおかげですよ。本来不要な記録までキッチリ残しといてくれてたんですから」
「検討するまで時間がかかる。まあ明日はのんびり過ごしたまえ」
「早く艦に帰りたいんですが…」
「ほう、陸には飽きたかね?」
海とちがってこうゴチャゴチャしているところじゃあ、あれこれ考えすぎてしまう。俺はこういうウザったらしいところはやっぱり苦手なんだ。
早めに家に帰って来て遅い昼飯を食っていると、店先がなにやらざわついていた。急いだように番頭が俺のところに飛んできて、お客さんですよとヒソヒソ声で言った。
「俺に客?だれ」
「それが…ちょっと…」
なにそれ、口に出せないの?出せないほどはばかれる人?
「まあいいや」
俺が店頭にどしどしと足音を立て出て行くと、ちょこんと日傘をさしワンピースの裾をヒラヒラさせた女のうしろ姿が見えた。
「どちらさまですか?」
副番頭さんやほかの丁稚どもは半ば固まったようにその場に突っ立っていた。俺のその声にその女が振り向いて、ニコリとその美しい顔で笑った。
「来てしまいました。まずかったですか?」
春子、いや小春だった。
「いや店内で日傘をさされると、他のお客さんが怯えてしまうんで」
と俺はわけのわからないことを口走った。それにいの一番に思い起こしたのは清子の顔だった。この時間、あいつは妹のマツと一緒になにかの稽古に行ってるはずだ。なんの稽古だったかなあ…と俺が考えていると、当の小春はくすくすと笑っていた。
「すぐ出ますから。ちょいとおつきあいしてくれる、そういう余裕ってあります?」
「どこに?ですか」
「どこでもいいじゃないですか。なんならひょうたん池を一周でも、もしあれだったら泳いでもかまやしません」
「かまいますから泳ぐのだけは勘弁ねがいたいです」
そう言って俺は戸口にかけてあった親父のハンチング帽を被り、草履をつっかけて小春とともに店を出た。後ろから丁稚や番頭どもの強烈な視線を感じた。
「いいお天気ね」
小春は日傘越しに眩しそうに空を見上げて、俺に悪戯っぽくそう言った。
「湿った西南の風です。早ければ明日朝には雨になりますね」
「野暮天」
小さくそう聞こえた。
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