化粧

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化粧

女は化け物だという。化粧でいくらでも変わるからだ。だけど小春は、芸妓の厚い白塗りをしようが、いまの薄化粧だろうが変わらないと思った。どっちが化け物に近いんだろうと、俺は真剣に考えてしまうほど小春は美しかった。 「ねえ、お団子食べていく?」 「あんたいまそこで餅食っただろ?いったいどんだけ食うんだよ」 「あらいやだ。今日は帯を締めてないから、いくらでも入るんだわ」 「なああんた、ほんとは何しに俺んとこに来たんだ?」 チラと後ろ目で俺を振り返った小春は、勝手な方を向きながらけっこう大きな声で歌をうたった。 ――レンゲの丘に咲くきみを そっとつがえてみる空に 「おい、往来だぞ。人が見てる」 やたら美人の女が人目も顧みず歩きながら歌ってるなんて、いやいくら六区のなかでも目立つったらありゃしねえ。 「あたしは恥ずかしくないわ」 「そりゃおまえは芸事で慣れてんだろうけどよ、そういう飛びぬけたのと一緒に歩いている俺としては、さすがに気恥ずさがさきに立っちまうんだぜ」 「軍人さんにしては気が小さいのね」 「俺は繊細なの。風力、速度、潮の流れ、そういうのを計算して燃料をいかに目的地まで持たせるか、俺はそういう仕事をしてるの。繊細じゃないと海のどまんなかで立ち往生しちゃうの!」 俺は俺の仕事に誇りを持っている。海軍軍人として立派にお国のためになろうとしている。繊細だろうとビビりだと言われようと、俺は俺なのだ! 「ちょっと声が大きいわ。恥ずかしいからやめてね」 「てめえ…」 「ふんふんふーんふん」 こんどは鼻歌かよこんちきしょう。 「あ、ついた。ここここ」 小春が立ち止まり指さす先は、あのカスミ座だった。 「なんだよ、こんなの観に来たのかよ」 「あら知ってるの?このオペラ、最近評判なんだって」 「世のなか助兵衛な男が多いからな」 「なあに?」 「い、いやなんでも」 劇場はにぎわっていた。せまい座席に所狭しと詰め込まれた客が、文字通り肩寄せ合って舞台を見やっている。伴奏の楽隊が隅で調律していて、雑多な音が耳に流れ込んでいた。 「そこ空いてる。座りましょ」 俺の手を引いて小春はその小さな尻を粗末な椅子にそっと置いた。つられて俺も座ったが、椅子は嫌な音で軋んでギ―と鳴って傾いて、どうにも具合が悪かった。 調音調弦(チューニング)が終わると重なった単音がスーッと消えていく。舞台の幕が開き、役者がひとり出てきてスポットライトを浴びる。長々とその口上を述べるうち、舞台奥では踊り子たちがしずかに出そろっていく。 やがて口上が終わり、音楽とともにダンサーたちの踊りがはじまる。 「おかしいな」 「どうしたの?」 「いや、ほんとうならここでサロメが中心となって踊んなきゃなんないんだけど」 ヘロデ王の酒宴に踊るサロメが、王の淫欲にまみれたその視線に耐えかねて、王宮の外に逃げたとき、深井戸の牢獄に捕らえられていた預言者と出会うことになる重要なシーンのはずだ。 そのとき目のすみに、劇場のドア越しから通路で頭を抱えているリリイが見えた。俺はそのとき変な胸騒ぎを覚えたが、俺には関係ないとまた舞台に心を移した。が、サロメがいないこの後の展開に、俺はかえってハラハラしだして、もう他人事とは言え、放っておけない気分になってしまった。 廊下に出ると、谷田リリイは泣いていた。 「おいどうした」 「あっ」 俺を見てさらにリリイは大粒の涙をこぼしはじめた。 「なにがあった?」 「あのね、逃げちゃったの」 「はあ?わけわかんないぞ。逃げちゃったってなにが」 「役者よ。ヘロディアス役の役者…」 話を聞くと、どうやらサロメの母親ヘロディアス役の女優が、座の振付師と駆け落ちしちまったらしい。代役が決まらないまま舞台をあけたはいいが、どうしてもヘロディアスが歌うシーンは必要ならしい。サロメに母の心情を訴えて、預言者を殺させるために歌う重要な場面だ。 「じゃなきゃサロメはただの淫乱放蕩気まぐれ女になっちゃうのよ」 いやもうそれでいいんじゃないかと俺は思った。オスカー・ワイルドの戯曲って、たしかそんなもんだぞ。 「だれか歌のうまいやつに歌わせればいいだろ?」 「そんなの無理よ。悦子ちゃんはこの歌を歌わせるために松竹から引っ張ってきたの。ヘロディアスは恋多き女。前夫をその弟に殺されたにもかかわらず、その弟の妃となった。淫売とも淫婦だとも言われたヘロディアスの歌を歌い、演じきれる役者はそうはいないの」 まあある意味この芝居の要なんだな。だがお気の毒だが、役者の抜けた演目を飛ばして続けるしかねえよな…。 「あたしが出てあげようか?」 振り返ると小春が立っていた。 「あんた…」 大急ぎで涙を拭いたリリイがじっと小春を見ていた。 「筋は変わるけど、歌えばつじつまは合うわ。要は娘に母親の心境と、その思いを伝えりゃいいんでしょ?」 「まあそういうことだけど…あんたほんとに歌えるの?」 「歌うのは好き。ほら、好きこそものの上手なれっていうでしょ?」 俺はこの時点でもう、オロオロしていた。なんせ俺は野暮天で小心者なんだからな。
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