代役

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代役

つぎの幕こそ、サロメが預言者に恋をしてしまい、それを知った母ヘロディアスがサロメに愛と憎しみを教える場面。ドイツオペラだとメゾソプラノの歌手の長い独唱のはずだ。 「どうすんの?舞台にそのまま出て『宵待草』でも歌う?」 リリイが言ったのは当時流行りの歌唱曲だ。 「ううん、まあ聞いてて」 「伴奏はどうするの?」 「最初は無伴奏で。つけられそうならあとからつけてもいいわ」 「ずいぶん自信あるのね」 「彼氏の前で、いいとこ見せたいだけよ」 「ふうん…」 リリイは俺を見たけど、俺はこいつの彼氏じゃないからな! 舞台の幕が開いた。第二幕だ。サロメが舞台せましと踊り、そしてふさぎ込む。それを見かねたように母ヘロディアスがあらわれる。歌いながらサロメを優しく包み、そして幻惑する。復讐へといざなうために。 小春が舞台中央へ進み出る。客席は、何ごとかとざわめき始める。脚本にない展開だからだ。 それは簡単なセリフから始まる。 「あの男が好きか?愛しているか?だがだめだ。あの男には死こそふさわしい。なぜかわかるか?わが愛しき娘ヘテロ。あの預言者には侮辱も欲情も、そして凌辱もきかないからだ…」 観客は出てきた女に、そのセリフに息をのむ。そして…彼女の独唱がはじまる…。 ――レンゲの丘に咲くきみを そっとつがえてみる空に ゆきかう鳥はおおけれど だれもゆくえはわかるまい やがて旋律を覚えた楽団が、そろそろと曲を奏で始める。それに乗って、小春は歌いだした。まるでそれは小春ではなくて、ただの女として…ただ恋する女として…そこにいるようだった。 ――古城の石にこけむする いくせんまんのつわものに いまやおそしと吹く風を ただ忘れ人のおもいなす ――行く先知れずあの旅路 起きては死する最果ての いく年かぞえるそのなみだ 忘れることなきわが想い ――レンゲの丘に立つきみを いまははるか遠く見て 望郷の園の果てしなく それぞわが心わが想い  俺は鳥肌が立った。女の恋心、いや情念がこんなに深く、そして罪深く、そして残酷か。観客こそ息をのみ、その声の余韻をしびれるように心刻んでいる。やがて小さな拍手が…そして大きな拍手と歓声が上がる。もういたたまれない気持ちで観客は手を叩き足を鳴らした。 お辞儀をすますとさっさと舞台を降りた小春は、裏手から俺のところにやってきて、肩をひょいと上げた。 「どうだった?」 そう聞かれても、とても圧巻でしたとしか答えられなかった。だが、強いて答えるならば…。 「俺もああいうふうに惚れられてみたいと心底思った」 「ねえ、牛鍋でも食べていく?」 また悪戯っぽく笑いやがった。こいつは知ってるんだろうか?さっき観客が熱っぽい視線をこいつに浴びせてた。いっぺんにこいつはやつらに恋させちまったんだ。まったく罪な女だ。だがその女は何だってここにいるんだ?こいつがヘロディアスだったら、こいつはだれを破滅させようとしているんだ? 「おまえ仕事はいいのか?その…お座敷の…」 「ああ、お母さんには今日は休むって言ってあるんだ」 置き屋にはちゃんと休みを取っているという。なかなか計画的なやつだ。不意を突かれて引っ張り出された俺は、もうこいつの手のひらのなかって感じだな。 浅草『牛久』は明治から続く牛鍋の老舗だ。俺も親父や友人と来る。下足番のおじさんとも顔見知りだ。その顔見知りのおっさんが目を剥いて俺らを見た。俺がとんでもねえ美人を連れている。まあいま向島で評判の芸妓を連れてるんだ。小春だって何度もこの店には来ているだろうしな。 「こりゃ筒井の若旦那さま、ご機嫌ようござんす」 「ああ、おいちゃんも元気そうだね」 俺はそう言って気前よく五十銭硬貨を渡す。筒井はうちの屋号だ。おいちゃんは黙ってそれを受け取ると、ふたりの下足を大事そうに預かった。そうして来客を知らせる太鼓をたたく。ひとりなら一回、ふたりなら二回と。 二階にあがり、座敷に通されると、すぐに酒が出た。 「なあ、あの歌は…」 「兄がシベリアに…行ったの」 「え?」 大正七年、日本はシベリアに派兵することとなった。名目上はロシア革命により社会主義勢力下において俘虜となったチェコ軍の救出だったが、目的を達成し連合国軍が撤退してもなお日本軍はシベリアに駐留、占拠し続けた。極寒と赤軍のパルチザンによる抵抗でそれは困難を極めたという。 「兄は騎兵で、あたしも小さいときは習志野に連れてってもらって、馬に乗せてもらったわ」 「お兄さんは…」 「さあね。極寒のシベリアで、くたばったんじゃないの?」 「そんな言い方は…」 「だってあたしに黙って逝ってしまう薄情な兄よ?そんなの許せない」 きっとあの歌は、きみのお兄さんへの、歌なんだね。それはただお兄さんが恋しくて、そしてその死を受け入れられない、きみ自身の鎮魂歌なんだ。 「俺は…」 おまえの兄さんの代わりじゃない…と、そう言おうとした。俺はおまえに恋されるほど、立派な人間じゃない…だから…。 「お連れさんというお方がお見えなんですが」 仲居さんが困ったような顔をして俺たちの席に来てそう言った。俺はなんとなく清子のことを考えて、背中に嫌な汗をかいた。 「名は名乗った?」 「はい、宮沢さん、とおっしゃってます」 「宮沢?」 すぐに顔が浮かんでこなかったが、清子とオペラの帰り、立ち寄ったカフェーにいたあいつかと思い出した。しかしなんであいつがここに? 「小春さん、野暮な客が来たんで、ちょっと離れます」 「あらいいじゃない。ここに呼んでさし上げなさいな」 「いやしかし」 「いいから」 牛肉をつつきながらおかしそうに小春は言った。もっぱら俺に食べさせていて、自分じゃあんまり食べないんで、いい加減帰ろうかと思っていた矢先だった。 「じゃ仲居さん、すまないけどここに案内してくれるかな」 「ようござんす」 しばらくして、あの朴訥そうな青年が、きょろきょろと座敷を見渡しながらやってきた。 「きみはいったいどういうつもりだ」 俺は怒ったふうにそう言った。 「大変恐縮です。じつはさっきお見掛けして…」 「俺をか?」 「いいえ!そちらさんの…です」 「小春か?」 「小春さんと言うんですね」 ああきっとこいつはあの劇場で小春の歌を聞いたんだ。そりゃこいつの歌を、こいつの姿や顔を見りゃ、一発でそれは虜になるさ。 「それで追いかけろとなりまして」 「は?」 「リリイさんに命令されて、おふたりを捜すように」 「おまえ…」 こいつリリイに取り込まれて、いいように使われてんのか。気の毒に。まあ本人は幸せそうだからいいか。 「もうじきリリイさんも来るはずです。おふたりにお礼が言いたいそうです」 「そんな、お礼なんかいいのに」 と言いながら小春は小皿に煮えた牛肉をよそって宮沢に渡した。 「え?」 「まあお食べよ書生さん。ふだんは慎ましくされていらっしゃるでしょうが、ここはわが園、わが領土なれば、存分におもむくまで堪能すればいいでしょう」 芝居がかったもの言いで、小春は書生に勧めた。小春はこの男を知っているようだ。男の方はきょとんとして知らないようで、世の中はこうして不公平がはびこるんだと、いまさらながら俺は思った。
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