夜更けのくちづけ

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夜更けのくちづけ

しばらくしてリリイがやってきた。宮沢青年はひたすら肉を食っている。 「まえに近衛の輜重隊の隊長さんの部下で、お座敷に一緒に来た保坂さんが見せてくれたのよね。あんたたちが作った本」 小春の言葉に、え?という顔を宮沢はした。 「保坂ってあの?」 「ご友人なんでしょう?一緒に同人誌をお作りになった」 「はい。そうですか、保坂が…」 「宮沢賢治って名前でその本に短歌や詩を書いていた。すごく印象に残ってたわ。その宮沢って、あんたよね?」 宮沢青年は眼をぱちくりしながら、ウンとだけ言った。 「やだこのひと文学青年だったの?」 リリイが驚いた顔をしてそう言った。それに対し宮沢青年はおおいに不服然とした面をしていた。 「いいえ、ただの農学者です。まあいまのところはですが。んだども将来は事業を起こして故郷の貧困をなんとかしたいと…」 「えらいわねえ。どこかの軍艦バカとは大違い」 小春が軍艦というところだけ力を込めてそう言いやがった。 「軍艦バカって俺のことか?」 「まあまあ、さ飲んで、大尉さん」 小春が笑って酌をしやがった。甘い、いい香りがくすぐったく、俺の鼻の奥を攻め立てた。 その店はリリイのおごりになった。なんとか役者のつてもついたらしく、また明日から興行できると喜んでいた。 「いつでも寄ってね。ぜったい楽屋にも来てね」 帰り際、リリイは俺の手を握ってそう言った。俺は適当に返事をした。 春の夜風が気持ちよかった。隅田川の堤防に出ると、いっそう川風が心地いい。どこかで三味線の音がする。少し酔ったのか、何度かつまづいた。 「大丈夫?大尉さん。陸の上じゃあ勝手が違うから大変ね」 からかうように小春が言った。俺はああ、とだけ返事をした。 「どうしたの?なんかさっきから急に黙っちゃって」 「なあ小春…あの歌はさあ…」 俺はずっと疑問に思っていた。舞台で小春が歌った歌だ。あれはだれの作った歌だろうか? 「あれはあたしが作った歌」 「おまえがか?」 「あら馬鹿にして。あたしだってそれくらい作れるわ。そうしてあの歌は…別れわかれになったものどうしの歌」 「おまえと兄貴ということか…?」 「そうじゃないわ…」 じゃあいったい誰のために?俺はますます気になった。 「しかし…」 「ねえ克彦さん」 「な、なんだ」 「あたしを見て」 急に俺をつかまえ、俺の顔を小春は見上げた。月の光に照らされて、小春はうっすらと輝くように見えた。 「克彦さん…」 そうして俺はもうなにもわけもわからず、小春のちいさなくちびるに俺のそれを重ねていた。 静かに川面はゆっくりと流れる。遠くの三味線の音だけが続いていた。だがそれもなにもわからなくなるほど、俺の心臓は鳴り響き、頭のなかがかすんで行った。まるで霧のなかの…ように。
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