春の夢

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春の夢

春先の庭に咲く花はどれも美しいが、どこか儚い。庭は亡くなった母親が丹精込めたものだが、いまは後妻の佐代子さんが変わりに手入れしてくれている。 「変に義理立てするものだな…」 俺は朝につけ夜につけ、庭に立つ佐代子さんを見るたびそう思った。まあ見るのはここ二、三日のことだから、どうとも言えないんだが。そうやって庭と佐代子さんを眺めていたら、振り向いた佐代子さんと視線が合った。 「夕べは遅かったようですね…」 佐代子さんは笑ってそう言った。責める口調ではなかったが、どこか寂しそうな感じがした。芸妓と夜遊びをしたことはもうわかっているようで、まあ義理の息子でもちっとは寂しいのかと、かえって変に気を回して考えてしまう。だからまったく俺は野暮天なんだと、どうでもいい納得をしてしまった。 「みんなはまだ寝てるんですか?」 家じゅうが静かだった。通いの奉公人たちもまだ来ていないようだった。 「夕べ遅くに深川あたりで火事が出たそうです。旦那さまと奉公の人たちが行きました。まだ深川から帰ってないんですよ」 それは知らなかった。深川にはうちの油倉庫がある。もしそれに火が回ったら大変なことになる。親父たちは徹夜して火の手を食い止めたり焼け出された人たちの救護をしているに違いない。 「それは知りませんでした。倉庫はだいじょうぶだったんでしょうか?」 「倉庫はだいじょうぶだったんですが、火は木場まで広がって、焼け出された人も多いと報せがありました」 まったく自分のうかつさを反省した。親父たちが火のなかを駆け回っているときに、息子の俺は芸妓と火遊びしてるんだからな。いや火遊びとは違う。俺はあのとき本気だった。本気で小春を好きになった。小春とこのまま一緒になりたいとも思った。だが現実も一緒にその思いに立ちふさがった。 俺はやぶから棒に起きたそのことを、そして小春との一夜を、淡い春の夢として、その心の奥深くにしまい込んでおかなければならなかった。だが弱い人間の俺が、そんな聖人噺のような、聞いたやつが感心するような真似が果たしてできるだろうか?俺は軍人であり、そしてこの商家の跡取りでもあるんだ。俺は冷静にならなければならない。夢を描いてはならぬのだ。安易な恋に、溺れてはならぬのだ。どうして?――そう声が聞こえた気がした。 ――レンゲの丘に咲くきみを そっとつがえてみる空に 歌が聞こえた…。小春の歌が、聞こえた。そう思った。 「克彦さん?」 佐代子さんの声でわれに返った。庭に朝日がさしてきた。自動車の排気音や馬車の走る響き、そして物売りの声。そこにはいろいろな音や気配があった。もう夢は覚めたと、俺はそう思った。 「いえなんでもありません。これから親父たちのところに行こうと思います。海軍省には途中の電信所で電話をかけておきます」 「行くなら清子さんを連れて行ってあげて」 「え、清子を?」 唐突に清子の名が出てきたので少し心がざわついた。と同時に、なにか後ろめたい気持ちでいっぱいになった。清子は俺の幼なじみで、恋人でも何でもない。それに負い目を感じる必要はないのだ。ないとわかっていても、なぜか心は落ち着かなかった。 「ゆうべはひとりで夜食を持って行くと言い張って、丁稚をふたりつけてやったけど、今朝はひとりで行く気みたいなの。お握りとかはこさえてあるから、もうじき来るでしょう」 「頭が上がりませんね」 「そう思うんなら一緒に行ってあげてね」 「はい」 俺はじつにくだらないやつだ。親父や清子が一生懸命働いてるのに、俺ときたら、芸妓と夜遊び…。まったく清子に合わせる顔などないな。 「おばさーん」 おもてで清子の声がした。 「ほら、行ってやんなさい」 「あ、ああ…」 俺は庭におりて草履をはいた。庭から見えた朝日は、もう近所の家々の屋根まで差しかかっていた。俺は慌てたように裏口の戸を開けてやった。最初、清子は驚いたようだったが、俺にちょこんとお辞儀をして、黙ってなかに入って来た。俺の横をすり抜ける清子の、その体から発する体温と、なにかの甘い香りが俺の後ろめたさを一層強いものにした。 「克ちゃん、ゆうべは」 「ゆうべはごめんな。火事にことは知らずに飲んだくれていたんだ。まったく海軍軍人として恥ずかしい限りだ。このとおり!」 俺は思いをすべて打ち払うように…手を合わせ頭を下げた。 「まったく信じらんないわ。どこ探してもいないし、しかたないからあたしひとりで行こうとしたらおばさんに止められて…」 「本当にすまん!」 「じゃあ持ってよ」 「え?」 「えじゃないわよ!そこのおにぎりの包み!それとお新香と土瓶!」 「こんなにか?」 清子はそれを聞いてますます怖い顔をした。 「それゆうべあたしが…」 「ぜんぶ持つ!清子は布と軟膏を」 「はい」 そのまま清子にしゃべらせていたら、きっと大粒の涙を流し、泣きだしていたんだろう。無理して怖い顔を作っていたが、眉毛はハの字になっていた。まったくわかりやすい娘だ。そんな清子がいじらしく、そして哀れに感じた。俺なんかの幼なじみになっちまった、その哀れに、だ。
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