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国鉄横須賀線
国鉄横須賀駅の前は相変わらずごった返していた。道をうめる人力車や、迷惑そうに走る乗合馬車をしり目に、俺は横須賀駅の切符売り場にいた。
「東京まで、二等一枚」
二等車はいまでいうグリーン車に当たる。海軍大尉あたりの身分じゃ分不相応だが、油問屋をやっている実家のおかげで金はある。三等の客車は切符が赤色で、俗に赤切符と言われる。これが一般庶民の乗る客車だ。
横須賀を出れば列車は山あいや谷間を走る。本来は大船で乗り換えなのだが、この列車は東京駅まで乗り入れるやつだ。
横須賀の駅近くで買った弁当を広げる。早朝から書類の整理に追われ、艦内で朝食も取れなかった。大船駅で駅弁を売っているのだが、さすがに腹が減ったので横須賀駅近くの『舟屋』という船宿兼料理屋の店頭で売っていたそれを買った。
「なんだ、握り飯か」
折詰に入っていたからそれなりの弁当だと思っていたので、少しがっかりしたが腹が減ってはなんとやらだ。竹の皮に小さくまとめられた香の物と、俵状に握られ海苔を巻いただけのただの握り飯だったが、まあ近ごろは米の値段も上がって、それこそ混じりっ気なしで米が食えることに感謝しなけりゃな、と勝手にそう思い、食った。
「うまいな」
米の味もよかったが、塩っ気が絶妙だった。艦でも戦闘配備中は食事は握り飯が決まりだが、これほどうまい握り飯を食ったことはない。
そんなことを考え、添え付けの大根の漬物をポリポリ食いながら、俺は車窓を眺めていた。そんなとき、ふいになにか生温かな体温を感じた。
「海軍さん、おむすびだけじゃ喉がお渇きでしょう?どうですか、これ」
見ると美しい姿の女性が腰をかがめて俺に竹筒を差し出している。いま若い女性では洋装もおおく、珍しくもなくなったが、いまそこにいる女性は際立っていた。胸のところが大きく開いた紫のワンピースに、レースの下地。真っ白な大きなつば付きの帽子と真っ赤な靴。なんだかここは日本じゃないみたいに思えるほど、その容姿は飛びぬけていた。
「これを自分に?」
「はい、ぜひ。お嫌でなかったら」
見ず知らずの者に物をもらう…。海軍将校だったら厳に断るところだが、あいにく俺は下町育ちだ。ひとの好意は無下にはしないのが下町流だ。
「ありがたくいただく」
俺は竹筒の小さな栓を抜き、そのまま口につけ中のものを飲んだ。突然、のどが熱くなったような気がした。こりゃあ…酒じゃねえか。少しむせ込み、さらに喉が熱くなった。
「おや、お酒は苦手ですか?」
水じゃねえのかよ。なんで酒なんか…?
「苦手じゃないけどいきなりだから、酒だと思わなかったよ」
「水やお茶じゃ、このわたしがお渡しするのに、それは野暮ってもんでしょう?」
このわたし?どういう意味だ?
「きみは…」
「ねえ、このままじゃ揺れがひどくって。立っているのも辛いわ。お隣、座ってかまいません?」
「あの…」
もといた席に戻ればいいんじゃないかと思ったが、そういうことを言う間もなく娘は俺のとなりに腰かけてしまった。立っているときはスラッとした上背を感じたが、座ってみると俺より頭半分ほど小さかった。そうしてさっきより強く彼女の体温を感じ、ましてや彼女からとてもいい匂いがしたもんだから、俺は実際、身の置き場に困ってしまった。
「あたしは小春。小春日和の小春と言います。あなたは?海軍さん」
いたずらっぽく笑って、俺を下からすくい見るようにしてくる。そのしぐさが妙になまめかしくて、俺はさらに困ってしまった。
「自分は亜月克彦。帝国海軍大尉だ」
「今日はどちらへ?軍のお仕事で東京に?」
軍務についてそんなこと答えられない。だいいち軍人に聞くことじゃない。
「休暇で実家に帰るところだ」
「まあ、ご実家はどこ?」
「浅草だ」
「まあまあ、あたしも浅草なの。奇遇ねえ」
「そうか」
こいつはなんなんだ?妙に馴れ馴れしいし。
「ああもう大船。わたしはこれから横浜に行かなけりゃならないの。ねえ、もし浅草でまた出会ったら、今度はゆっくりとお話ししましょうよ」
「だから…」
そんなことはめったにない、と言おうとしたが、彼女はあっという間に列車を降り、あとには甘くいい香りを残していった。俺は手に持った竹筒の酒を一気に飲み干して、目をつぶった。寝てしまって、いまのことも夢にしてしまえ、とそう思った。
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