タクシー

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タクシー

東京駅から浅草までは一般に市電か人力車だ。近ごろは自動車も多くみられ、シボレーやパッカードといった米国産の自動車に混じって国産のアロー号や三菱が町なかを走り回っていた。 「ねえ海軍さん、どこまで行くの?」 女性の声でそう声をかけられたのは、改札を出てすぐだった。紺色の洋服を着た若い女だ。 「浅草までだが?」 「じゃあ乗っていきなよ。うちの車は安全、安心、それに早いんだよ」 短くまとめ上げた髪に、白いシャツ、制服なのかちょっとぶかぶかな紺地の洋服のいでたちで、女学生が履くような靴を履いている。まさかこいつはタクシーの運転手なのか、と俺はいぶかしんでしまった。 「おまえが?自動車を?」 「あたしは助手。タクシーのね」 「ああ、助手ね」 和装も多い時代、タクシーの乗り降りが大変なのだった。とくに女性の場合、和服や日本髪が邪魔になり、その手助けとして助手を乗せているタクシーが多いのだ。だから運転席のとなりのシートはとくに助手席と呼ばれる。 「ねえ、乗ってきなよ」 「いくらだい?」 運賃はあってないようなものだった。この後、円タクという料金制ができたのは震災後の大阪で、それより二年遅れて東京に導入された。料金メーターもついているのだが、あんまりあてにはならない。だからいまは運転手との交渉が料金の基準だ。 「一円三十銭でどう?」 「高いよ。人力車ならその半分以下ですむ」 「ケチねー。ま、いいわ。じゃあ一円!」 「まだ高い。八十銭」 「それじゃ燃料代にもならないじゃない!帰りはあたしが車の尻を押す羽目になっちゃうわよ!」 俺はこのやり取りでどうにも可笑しくなってしまった。そうなりゃ俺の負け。商売とにらめっこは笑ったら負けだ。 「わかった、一円でいい。それに三十銭、こいつはチップだ」 「チップ?」 海外の食堂やホテルでは必ず料金の他に奉仕料というものをボーイやウエイターに渡す決まりがある。日本にはそういった習慣はない。まあ気持ちよく運んでもらうための心づけ、みたいなもんさ。 「じゃあじゃあ父ちゃんにうんとスピード上げてもらうわ」 「いらんことしなくていい。安全に走ってくれって言ってくれ」 「じゃあ雷門とか凌雲閣とか見て回る?」 「俺は浅草の生まれだ。いいから菊谷橋まで頼む。寄り道はいい」 「ちぇっ」 なんか残念そうだが、いちいちつきあっちゃいられない。はやく帰ってひとっ風呂浴びたいんだ。
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