幼なじみ

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幼なじみ

娘の親父だというタクシーの運転手は、あまり口をきかない寡黙な男だった。かわりに娘はよく喋る。 「でさあ、浅草十二階でファッションショーっていうのがあってね…」 『浅草十二階』は凌雲閣の呼び名で、むしろそっちの方が一般に親しまれていた。客寄せで明治後半ごろからは写真による美人コンテストや、芸妓を集めた顔見世など様々な催事をやっていて、俺などはまったくよくやるもんだと呆れていたものだ。 「もういい。俺はガキのころから百っ遍はあそこにのぼった。展望室南側の望遠鏡のわきにゃあ俺の名前の落書きがある」 「じゃあさ、金龍館の浅草オペラ!」 オペラと言ってもヨーロッパの伝統的な大規模オーケストラをともなった歌劇それではなく、大衆演劇風に演出されたむしろ米国のボードビルに近い、歌と踊りを中心とした華やかなものだ。金龍館は活動写真(シネマ)と演劇の二本立ての劇場で、ここで松竹の『新星歌舞劇団』が旗揚げしていた。 「ふうん、いま何やってんだ?」 「『天国と地獄』っていう歌劇さ」 「ああ、おねえちゃんたちがスカートたくし上げて踊るやつか」 「やらしい。あんたほんとに海軍士官なの?なんか幻滅」 本来は『地獄のオルフェ』というジャック・オッフェンバックの作曲によるオペレッタで、その邦名の『天国と地獄』は、大正三年に帝劇で初演された。劇中、ギャロップと呼ばれる楽し気な踊りは、複数人で舞台に並び高く足をあげて踊るのが特徴だ。後世、フレンチカンカンという名で知れ渡る。当時、浅草はシネマ、演劇、芸能といった大衆娯楽の拠点として隆盛を極めていた。 「あのなあ、話はギリシア神話の寓話に見せかけているが、こいつはブルジョアの腐敗や惰弱な打算的民衆を風刺したものなんだぜ?神とか人間とか大衆とか夫婦とか、そんな関係を笑い飛ばした演出なんだよ、そいつは」 「はあ?意味わかんない。面白ければいいだけでしょ?そんなに理屈をつけた芝居が見たかったら帝劇にでも行けばいいんだわ。浅草は浅草よ」 「まあそうだよな…」 清子が聞いたら泣いて喜びそうなセリフだ。清子はその手の演芸が大好きだからな。そう考え、ふと清子のいつも膨らませた頬っぺたを思い出した。 清子とは俺の幼なじみで、三つ年下の妹のマツと同い年だ。去年、新造艦として兵装など擬装を終えた二等巡洋艦『遠野』が就役、俺は練習艦『浅間』からその艦に転属勤務することになった。転属に当たり休暇を許されたので帰省し、妹や清子と遊んだ折、こんど帰省したら浅草オペラに連れて行くことを約束させられていた。 「まあもう忘れてんだろ…」 「なに?」 「客商売だろ。客の独り言は聞いて聞かぬふりをするものだ」 「ふんだ」 ふくれっ面が何だか清子に似ていた。 菊谷橋の交差点を少し行ったところでタクシーを降りると、商店や商会の並ぶ久しぶりの景色に、ほっとするように帰ってきたことを実感した。夕方過ぎで、人通りもあわただしく、薄暗くなるころ合いに街灯が点きはじめた。俺は人ごみを避けながら、表通りに面したいくつかある商会の建物のひとつに入った。 「克彦さん!」 店頭に入るなり番頭の清二さんが俺の名を呼んだ。さすが目ざといなと思ったが、こんな店に海軍士官が来る方が珍しいんだから、当たり前かと妙な得心をした。 「ただいま戻りました」 そう言って俺はちょこんと頭を下げた。 「旦那さま!坊っちゃんがお戻りで」 奥に大声で清二さんが知らせる。おい坊っちゃんはよせ、と俺がたしなめる間もなく、奥から親父と母が飛んできてしまった。 「帰ったか克彦。お国へのお勤め、ご苦労さまでした」 「父さん、ただいま帰りました」 「今朝がた電報で報せがあったから、まあ驚いちゃったわ。お帰りなさい、克彦さん」 「急に休暇が決まって、急ぎ知らせたかったんです。ただいま、お母さん」 「さ、奥に。おじいちゃんにもご挨拶を」 「はい」 俺は土間で靴を脱ぎ、板の間のきしむ音を懐かしみながら奥へ入った。仏間にはとってつけたように仏壇が開かれ、線香が焚かれていた。去年、祖父が死んだ。日に三度、銭湯をはしごするような丈夫なじいさんだったが、チフスにかかり、さらに肺炎を併発してあっけなく死んだ。外洋で訓練中だったのでとうとう死に目には会えなかった。大きな位牌がデンと仏壇の真ん中に、そうして小さい位牌がその隣にあった。 「克彦です…ただいま戻りました」 俺は手を合わせ、瞑目した。まだ目のなかに、残像のように位牌が並んでいるのが見えるようだ。遠くに物売りの声が聞こえる。静かな時間だった。 ――が、それを蹴破るように、いきなり仏間の障子が開けられ、俺が驚き構える前に首筋に着物姿の女が抱きついた。 「お帰りっ克っちゃん!」 「うげっ、清子か!離れんか!」 「おう、戦艦はどうだった?ちゃんと動かしてきた?大砲撃った?」 「戦艦じゃねえ、巡洋艦だ。ってか離れろよ。苦しい」 「なによこれくらい!帝国海軍の軍人なら平気です!」 「なにを勝手言いやがる」 「へーんだ」 笑いながら清子は俺を解放した。清子の胸が俺の背中に当たって、それに耳元で清子の息づかいを感じて、俺は相当ドギマギしたに違いない。だから見当違いなことを言った。 「おまえまだ嫁にはいかんのか?」 一瞬、戸惑った顔を清子はした。が、すぐに俺を真っすぐ見つめ直した。 「あんたがもらってくれるんでしょう」 「あのな…」 そこに妹のマツが入ってきて、それからなんだかうやむやになった。俺はしばらくうつろな気持ちで、家族や奉公人たちのあいさつを受けていた。
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