カスミ座

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カスミ座

夕食まではまだ時間があった。どうせ近所の連中や、近くの親戚にも声をかけてるんだろうから、宴会になるのは目に見えていた。海軍大尉に昇進して帰ったときも、上を下への大騒ぎをしやがった。 なにかにつけそういうものが好きな連中に囲まれて育ったんで、とくだんそいつが嫌なわけじゃないが、それでもさすがにチヤホヤされるのは照れ臭いし、いちいち戦争の話をさせられるのも閉口する。俺は青島(チンタオ)攻略や膠州湾(こうしゅうわん)海戦には参加してない。戦争など知らんのだ。 「ちょっと克ちゃん、約束覚えてる?」 休んでる二階の俺の部屋に清子がまた飛び込んできやがった。ひとのうちなのに遠慮を知らないやつだ。まあ、ガキのころからのご近所さんで、兄妹同然に育ってきたんだ。しかたねえか。 「約束ってなんだ?」 「もう、意地悪ね!帰ってきたらオペラに連れてってくれるって。なにしらばっくれちゃってるのよっ!」 たった一泊しかない貴重な休暇だぞ?しらばっくれてなにが悪い。 「そろそろみんな集まってんだ。そんなんでおまえと遊びになんか抜けらんねえよ」 「まだはじまってないじゃない。主役はあとから出て行くものよ」 「そんな勝手な…」 「いいからすぐ行くわよ」 「行くわよって、俺この格好でか?」 スタンドカラーのシャツに袴、まったくの書生姿だ。せめて洋服ぐらい着たい。清子はちゃっかりおめかしして、ちょっと派手な意匠の柄の銘仙(めいせん)の着物姿だ。 「いいからいいから。おじさんのトンビでも羽織ってりゃいいのよ」 トンビとは流行のマントで、二重廻しのインパネスコートを和装用に改良したものだ。 「まったくおまえは…」 「もうこんどいつ会えるかわかんないじゃない…」 そうさびし気に清子は言った。だからつい俺はほだされちまったのだ。 「しかたねえなあ。だがあまり長くは観てらんねえぞ」 「やた」 俺たちは二階から降り、目立たぬよう廊下の縁側から庭におりて裏に回った。履物はすでに清子が置いといたようだ。計画的だな、こりゃあ…。 もう日が暮れていた。夕闇のなか店々の明かりや街灯、提灯が旗やのぼりを照らして、それが風にゆらゆらし、なんともなまめかしく見えた。 六区に入るとそこは商会の並ぶ通りとちがい、見世物小屋や芝居小屋、演芸場や活動写真館など興行娯楽施設が所狭しと並んでいる。そこを人びとが雑多に行きかっていた。芝居小屋の呼び込みの声や太鼓、三味線の音。いつ来ても騒々しくって、ちょっと心が弾む。まあ俺のガキのころからの遊び場だ。 「克ちゃんあのひょうたん池で溺れかけたのよね」 清子がとんでもないことを言い出した。たしかに五歳のとき、俺はあのひょうたん池に落ちた。鳩を追いかけていたんだ。鳩は飛べるけど、俺は飛べずにそのまま池に落ちた。俺の黒歴史だ。 「もうそれ言うな。海軍軍人が溺れたなんてシャレにならん」 「いいじゃない。子供のころの話なんだし」 「子供のころだろうといけません!」 「はいはい。まあえらくなっちゃって、こわいこわい。あ、ここよ!」 立ち止まって俺は見上げてため息をついた。なんかやすぼったい看板にペンキで『カスミ座』と書いてあった。どうせなら『金龍館』や『日本館』のほうが流行だろうに。俺こんな一座知らねえぞ。 「いいからはいろ」 「おい演目ってなんだよ」 「いいからいいから」 どうやら途中からだったらしい。ドアを開けて入ったら後ろの客に睨まれた。中央の舞台でひとりの若い女性が歌っていた。遠目にも美しい女優だと思った。歌っているその曲は知っていた。 「『サロメ』かよ」 「知ってるの?克ちゃん、この話」 「ああ。オスカー・ワイルドってやつの戯曲にリヒャルト・シュトラウスってやつが曲付けした。まあこれがくだらねえ話で、要はサロメって美貌の女が領主をたぶらかして言うこと聞かねえ預言者を殺し、自らも死ぬっていう話さ」 「なにそれ」 また後ろの客に睨まれた。若そうないがぐり頭の書生だ。まあ俺もひとのことは言えんけど。 演目は佳境のようだった。領主の宴席でサロメが裸体を隠した七枚の布で踊るシーンだ。七つのヴェールの踊りとして有名だが、ここでそんなもんが見られるとは思わなかった。だってヴェールの下は裸なんだから。 「ちょっと見ちゃダメ!」 清子が俺の目をふさぎやがった。 「いやこれは芝居なんだぞ。これ見ないであと繫がんないだろ」 「克ちゃんは女の裸が見たいだけでしょ」 「いや見ねえし。見えねえし」 たしかに裸に見えるが、薄い肌色の服を着ている。なんだ裸じゃないじゃないか。へそは見えたががっかりだ。 「おまえらうるさい」 とうとうさっきの書生に怒られた。いやごめんなさい。 最後はサロメの悲劇的な死で終わった。大盾に潰された形でうずくまるサロメ役の女優が手を客席にすうっと伸ばすと、客席のあちこちから拍手と「リリイ」と掛け声が起きた。あの女優の名前らしい。 「あー面白かった。克ちゃんは鼻の下をべローンとのばしていましたが」 「べローンとか伸ばしてねえぞ」 「あ、あそこカフェがあるよ。寄って行こうよ」 「親父たち待ってるぞ。いい加減怒られる」 「いいからいいから」 強引に手を引かれカフェに入れられた。通行人が変な顔して見てやがった。ああ軍服着てなくてよかった。 「なに飲む?」 「俺はコーヒーだ」 「じゃあたしはミルク」 いまは流行のカフェーと言っているが、少し前まではミルクホールって名だった。一時期、銀座とかのそれに女学生が集まるってんで、練習艦からおりた若い少尉候補生たちが列作って覗きに行って、バレて半年は上陸の許可が出なかった話がある。もちろんそのなかに俺も入っている。えへん。 「あんたたさっきの!」 俺の横からちょっとなまった声がした。見るとさっき劇場で俺たちを怒ってた客じゃないか。 「おおこりゃ奇遇だな。その節はすまん」 「まったくうろでごちゃごちゃはなして」 「悪かったよ。コーヒーでもおごるから勘弁してくれ」 「おごる?ほんとか?」 態度が変わりやがった。やっぱこいつ書生なのか。 「俺の、いや自分の名は宮沢、いいます。よろしく」 「俺は亜月だ。こいつは佐藤清子」 「よろしくね」 「はあ…まあ…」 何で照れるんだお前が。それにしても純朴そうな青年だな、こいつ。 「ねえ宮沢君、あなたひょっとして…」 「賢治です。宮沢賢治です」 「あなたペラゴロでしょ?」 「ん、んなもんでねえす」 東北人かこいつ。てかペラゴロって何? 「おい清子、ペラゴロってなんだよ」 「ペラゴロっていうのはね、オペラの熱狂的なファンのことよ。まあオペラじゃなくって女優にかな」 「そ、そんなんじゃ…」 「もしかしてさっきの女優さんに…」 「や、やめて…」 そのときステンドグラスで装飾されたドアが開いた。すうっと若い女性が入ってくる。俺はちょっと息をのんだ。そいつはさっきの女優だとわかったからだ。 とにかく店中の耳目を集めた。彼女の一挙手一投足にみなが見入った。黒色のアール・デコ風のワンピースに黒いハイヒール。同じ黒いクロッシェと呼ばれる帽子をかぶっている。そこらの女が着れば太ったカラスにしか見えないだろうが、こいつはちょっと事情が違う。 「あ、いた」 彼女はそう言った。俺の目を見て。
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