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その花の名前
さっきまでの舞台のなまめかしい雰囲気とはまるで違い、彼女は凛とした態度で俺を見下ろしている。
「ここ、座ってもいいかしら?」
席はほかにもあるだろう。なぜここなんだ?俺のそういう戸惑いを察したのか、彼女は片腕をテーブルに乗せ、ちょっとかがんで俺に言った。
「あんたに話があるのよ」
え?俺なんかした?なんか怒られるようなことしたか?俺は清子を見たが、清子は黙って顔をフルフルと振った。
「いや俺あんたと初対面だし、なにか因縁つけられるようなことしてねえんだが」
「身に覚えはないって、こと?」
そう言って彼女はまた凄んだ。
「あるわきゃねえだろ。だいたい俺がいつあんたに絡んだんだってえの」
「あっはははは」
いきなり彼女は笑いだした。そいつは下品な笑いじゃなくって、華族のお嬢さんがたまらず大笑いしたような感じだ。
「ごめんごめん、ねえ、ここ座っていい?」
そうまた俺に聞いたんで、俺は仕方なくうんと言った。
「ねえ、お冷くださる?それとビール。冷えたのをちょうだい」
ビールは大瓶三十銭だ。コーヒーが五銭だから、ふだん書生なんかはミルクやコーヒーしか飲めない。(ちなみに三十銭は現在の千二百円)
「何か用なのか俺たちに」
「俺たち…というかあんたに」
「俺に?」
やっぱり何かしたのか俺?
「ねえあなたも飲む?わたしこんなには飲めないわ」
「飲めねえなら頼むな」
「申し遅れました。わたしは谷田リリイ。女優です」
「いきなり自己紹介かよ」
「驚かないのね。女優…その花の名を聞いてもあなたは心動かさず…ただ聖書のみ信ずるといふ」
「なんだそれ?」
「さあね」
女給がコップに入った水とビールを持ってきてテーブルに置いた。ご丁寧に空いたコップを三つ置いていきやがった。
「さあお近づきのしるしに」
「いやそうじゃねえだろ。俺に何の用だ」
「いきなり喧嘩腰ね」
「ケンカを売って来たのはそっちじゃねえか」
「こりゃ失礼。わたしはてっきりあんたが松竹の回し者だと思ってさ。あんまりしつこく勧誘するなって苦情を言おうとしたのよ」
「松竹?」
松竹って言ったら活動写真やそれこそオペラの興業主さまじゃねえか。
「会って話してみて違うって思ったわ。あいつらとちがってあんたあんなヤクザ連中じゃないもん」
「克ちゃんはヤクザじゃないわよ!立派な海軍軍人よ」
「へえ、あんた海軍さんか。おみそれふぁそらしど」
「なんだよそれ」
こいつぜったいバカにしてるな、俺を。
「それはいいとして、あんたわたしの芝居にケチつけたでしょ?」
「はあ?」
「ちょうどあんたたちの横にわたしの振付師がいたのよ。あんたたちがコソコソ言ってるのが聞こえちゃったんだって。くだらないって」
「言ってねえよ!くだらないってのは『サロメ』にいいようにされる男であって、サロメもじつはあやつられてるってことを言ったんだ」
「よくわかんないわね」
「いいか、サロメってのは――」
もともとは新約聖書の話だ。イエスに洗礼を授けたユダヤの預言者ヨハネを、不道徳を指摘され憎しと思っていたが殺せずにいたユダヤの王ヘロデの妻が、その娘をそそのかして王にヨハネを殺させる。その娘こそサロメなのだ。
「まあひどい」
「知らねえでやってたのかよ」
「まさか聖書の話なんて思わないじゃない。やっぱり聖書なのね、あんたは。まあいいわ。これで誤解が解けたんだから、みんなで乾杯しましょう」
「なんでそうなる」
リリイは勝手に俺たちにビールをついだ。それからこげ茶の小さなバックからタバコを取り出すと、チラと上目で俺を見た。
「吸っていい?」
「俺はかまわねえけど…」
横目で見た清子の頬っぺたが膨らんでいる。気に入らないことがあるとそうなる。
「あたしはべつにかまわないわ。いつもお父ちゃんがスパスパやってるから」
「ねえ、あんたたちは恋人?」
いきなり何言ってんだこいつ!言いながらマッチでタバコに火をつけた。チリチリと燃えるタバコのよりも、それをくわえた口元が気になった。
「まあそうね」
「おい清子!おまえとは幼なじみってだけで、い、妹みたいなもんだろ」
「あら、じゃあ恋人ってことじゃないのね?」
「あのー」
さっきから黙っていた書生がおどおどと俺たちに割り込んできた。
「ああすまない。で、ペラゴロの話だっけ?」
「ち、違いますって!そんな…」
書生は真っ赤になってうつむいた。うぶなやつらしい。
「あんた毎日通ってきてくれるわよね。支配人がさ、花束を楽屋に持ってきてくれるんだけど、あんたなんにも言わず渡してくるって」
「いやその…」
「こいつさっき芝居小屋であんたの名前を大声で叫んでいたぜ。あんたへの気持ちを絞り出すみてえに、聞いていて痛々しかった」
「あっははははは…そりゃ気の毒ね、この人に聞かれちゃったら。でも毎回花束に添えつけてくる、あんな静かな詩を書ける人が、騒がしいオペラなんて」
「へえ、あんた詩人かよ」
「いやそれは…」
まあひとの趣味なんかどうでもいい。それより俺はうちでいまごろ盛り上がっているだろう宴会の方が気になった。いい加減帰らないと怒られるに決まってる。
「さあ帰ろうぜ。おまえんちの父ちゃんが酔いつぶれる前に」
「えー、もう?父ちゃんたちなんか放っておいて…」
「そうはいくか。あー今夜はどうも。ひさびさに陸に上がって、いろいろ面白かったよ」
俺はそう言い、テーブルに五十銭硬貨を置いた。
「ちょっと、多いわよ、あんた」
リリイがむっとして俺を睨んだが、俺はしらばっくれて清子を引っ張って店を出た。
「まったくなんだっていうのかしらね」
「女優家業もいろいろ大変なんだろう。引き抜きや競争とかもあるだろうしな」
「だからって克ちゃんに喧嘩売るようなこと…」
「あれは喧嘩じゃねえよ。いや喧嘩かな?まず恫喝して相手の反応を見て懐に飛び込む。隙のねえ相手だったらまず一歩下がる。相手の握りこぶしの具合で見定めて、殴ってきたらその勢いを借りてぶん殴る。いわゆるカウンターってやつさ」
「なにそれ野蛮ね」
「野蛮じゃなくて軍艦に乗れるか」
「ふん」
清子はあたまひとつ小さくて、目を離すと人ごみにまぎれそうになった。まあ見失ったって迷子になることはないし、勝手に帰れるだろう。清子は清子で始終振り向いて俺の所在を確認している。夜の雑踏で、まったく危なっかしいったらありゃしねえ。
「ねえ、手がお留守なんですけど」
「手がどうしたって?」
「手をつないでって言ってんの!」
「あー…」
男女が往来で堂々と手をつないで歩くなんざ、海軍軍人のすることじゃねえが、まあいまは書生姿だし暗いしな。
俺の手に清子の指が絡んでくるのを、俺は黙って受け入れていた。そうして二人並んで夜の雑踏を歩いた。ちょうど月が、東の空にぼうっと浮かんでいたのが見えて、俺はただそれだけを見ながら歩いていた。
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