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早朝の電報
家に帰ると案の定、叱られた。まあ家の外から盛り上がる親父たちの声が聞こえてたから、おおよそ見当はついていたけどな。
「帝国海軍士官、亜月克彦大尉どののご帰還を祝して!」
清子の親父はもう酔っぱらってる。俺は酒を注がれるまま杯をあけた。清子はあの着物のままかっぽう着姿で台所と広間を行き来している。通りかかって俺の杯が空いていると、そのまま膝まづいて俺に酌をした。その姿がキビキビして、俺はつい清子の姿を目で追ってしまっていた。台所の隅で妹のマツと握り飯なんか食っている。
どうせ叱られるなら、飯でも食ってくりゃよかったなと、ふと思ったが、なんだか疲れと酒の酔いでどうでもよくなった。ああ、明日は一番の汽車で帰らなきゃな…。
明け方、ニワトリの声で起こされた。まったくどこの馬鹿だか知らねえが、こんな町なかでニワトリなんか飼うんじゃねえよ、と罵りながら俺は重い体を布団から起き上がらせた。軍艦じゃ、何も考えず体が勝手に起き上がる。海軍兵学校からそう叩き込まれる。家に帰って来ると、そいつもなまるってことか。
軍服に着替えて廊下に出ると、母が女中たちと朝飯の支度をしていた。
「あら早いのね」
「もう行かなくちゃ」
「ご飯は?」
「いらない。汽車に遅れる」
「じゃあおむすびでもこさえるから、ちょっと待っててね」
いやいらん、と本当なら言うんだろうが、なんだかそんな言葉は遠慮した。母は父の後妻だ。三年前、母が病気で死んだ。肺の病だった。しばらくして親父は後添えをもらった。日本橋にある呉服問屋の次女で、佐代子といった。
とくだん俺には感慨もないが、当時妹のマツはおおかたショックだったらしく、後頭部に十銭玉くらいの大きさのはげができた。本人は相当気にしたらしく、家の中でもずっと帽子をかぶっていたっけ。まあいまは佐代子さんにじゅうぶんなついているようだ。
母が握り飯をこさえるあいだ、俺はなんだか手持無沙汰で、もう古く傷んだ廊下の壁をただボーっと眺めていた。すると玄関に声が上がった。
「お頼み申す。電報局より電報です」
どうやら電報の配達人らしかった。俺が玄関に一番近かったから受け取りに出ると、海軍士官の軍服を着た俺に配達人は姿勢を正したようだ。
「ありがとう」
そう言って電報を受け取った。宛先人は俺になっており、差出人は横須賀鎮守府となっていた。
――ホンジツ ヒトマルマルマルジ カイグンショウニ シュットウセヨ
俺はいらん仕事を押し付けられたと思った。だがそうなりゃこれから横須賀に帰らなくていいってことになる。それに公務扱いになるからタクシーを使える。まだゆっくり寝られるって算段が頭のなかで素早くめぐった。
「お母さん、用事ができました。今日、霞が関まで行かなけりゃなりません。まだ少し休めるので、握り飯はとっておいてください」
「じゃあゆっくり朝ごはん食べていかれるわね」
「せっかく握ったんです。もったいないじゃありませんか」
「あとであたしたちが食べるから…」
「いいです。絶対取っといてくださいよ」
俺は投げるようにそう言って自室に戻った。いやいや、もう少し寝られるとは、何の用だかは知らんが、艦長に感謝して朝寝をすることにしよう…。
「克ちゃんもう起きてるーっ?」
裏口から清子の声だ。なんでこんな朝っぱら来るんだ!
しばらくしてドタドタと足音が階段を駆け上がり、俺の部屋の障子が開けられた。
「あ、起きてたんだ」
「あたりまえだ。寝坊する海軍軍人はおらん」
「克ちゃん見送りに来たんだけど、ねえ、今日は軍艦に戻るんじゃなくて休みになったんだって?」
「もう聞いたのか。あのな、十時に海軍省に出頭だ。それに休みじゃねえよ。終わったらそのまま横須賀の艦まで帰投するんだ」
「あ、じゃさ、お弁当こさえて千代田のお濠のところで一緒に食べよう」
「女連れで海軍省に出頭できるか!」
まったくなに考えてんだこいつは。
「なにしてんだ?」
そのまま俺の部屋に座り込んでいる清子を俺は睨んだ。
「いやお話でもしようかと」
「こんな朝早くからか?」
「だってまだ時間あるんでしょう?」
「いやあるけど、俺はまだ少し寝ようと…」
「じゃあ寝て」
こともなげに清子はそう言った。昨夜は後ろ髪をひとつに束ねていたが、今朝は女学生みたいにおさげを結っていたのに気づいた。
「寝てと言われても…」
おまえがいるんじゃ寝られんだろうといま一度清子を睨んだ。
「じゃ子守唄歌ったげる」
――とらえてみれば そのてから ことりはそらへ とんでゆく
清子はいきなり歌いだしやがった。
「なんだその歌」
「『カルメン』っていうオペラで劇中で歌われるの。『恋の鳥』っていうのよ。いま流行ってるんだ」
「小鳥なんざ、可愛そうだから逃がしてやれという歌か。かわってんな」
「そんなんじゃないわよ」
また頬っぺたを膨らました。朝っぱらから何やってんだこいつは。
「ねえふたりとも、起きてるんだったら朝ごはん食べない?」
階下から母の声がした。清子は一瞬俺を見て、すぐに俺の腕をひっつかんだ。
「いこ」
そうして清子は強引に俺を二階から引きずり下ろした。ああ、せっかくの朝寝が…。これじゃ軍艦と変わらんな。
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