プロローグ

1/2
21人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

プロローグ

「私の研究施設(はこにわ)にようこそ」  大規(おおき)、という研究員の青年に通された部屋で、その女性は待っていた。濃い茶色の髪を肩上で前下がりに切りそろえ、大きな瞳の童顔を隠すように眼鏡をかけている。  歳の程は、どのくらいだろう。確か、二十代後半か、三十歳前後だと聞いていたが、見ようによってはもっと若くも見える。小柄な身体には少し大きい白衣を羽織っているが……その白衣は、所々が赤黒く汚れている。 「今、お茶を入れるから。座っててもらっていいかな?」  彼女――ここの所長に促され、淡いアイボリーのソファーに座る。目の前のテーブルの隅に追いやられるように、書類が山積みになっている。反対側のソファーには、淡い色のブランケットが、ひとつ。 「しかし、うちに用事とは珍しいなぁ。しかも(しばら)く滞在するの?君、変わってるって言われない?」  手際良くティーポットやカップを準備しながら、彼女はこちらに話しかけてくる。初対面の相手に、随分(ずいぶん)とフランクな口調だ。白衣の汚れといい、こちらに対する気遣いがあるのかないのか、言われた言葉をそのまま言い返したい気分になる。  中身の入ったポットと二人分のティーカップをテーブルに置き、砂時計を引っくり返す。それから、眼鏡の奥の大きな瞳でこちらを観察するように見つめ、にやりと笑った。 「……緊張、いや、警戒してるのかな?まあ、警戒するよねぇ。うちの施設の悪評はそれなりに知ってるつもりだよ。人道に反した研究をしてるとか、不幸な実験体を作り続けてるとか、そもそも何の為の研究所なのか分からないとか、散々なこと言ってくれちゃって。でもさあ、人の幸不幸を決められる程、世間様ってのは偉いのかなぁ?」  挑発的な物言いに、たじろいでしまう。その間も、砂時計はさらさらと時を刻む。 「ああ、君を責めている訳じゃないんだよ。ただね、自分が理解できないからって相手を非難する風潮が嫌いってだけ。特に幸不幸なんて個人的かつ、主観的なものでしょ?それを関係無い所からあーだこーだ言われるのは、不本意だねぇ。君だって、自分が好きでやってることを、他所から口出しされたら、腹のひとつも立つでしょ?」  砂時計が完全に落ちきったのを確認し、彼女はポットの中身をティーカップに注いだ。澄んだ明るい琥珀色の紅茶からは、華やかな花の蜜のような香りが漂う。何の紅茶なのか尋ねると、ダージリンのファーストフラッシュだよ、と教えてくれた。  彼女が紅茶に手をつけないので、自分も手をつけずにいると、 「……変なものは入れてないよ?」  彼女はぱちぱちと瞬きをして、小首を傾げる。何か誤解されたらしい。こちらの真意を伝えると、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。 「ごめんごめん、そういう事かぁ。私、猫舌なんだよねぇ。気にせずに飲んでよ」  素直に口をつける。渋味が少なく、爽やかな甘味の印象が強い。普段口にする紅茶とはやや印象が異なるように感じた。美味しいです、と言うと、彼女は嬉しそうに微笑む。  挑発的に皮肉を言ったかと思えば、思春期の少女のような微笑みを浮かべる。不思議な女性だ。気まぐれな子猫のような印象を抱く。もしくは、「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーのような、不安定な魅力があるように思えた。 「で、うちの〝こどもたち〟……実験体のことね。彼等の話をしようか」  彼女は頬杖をついて、こちらを見やる。 「こういう表現はあまり好きじゃないんだけど、有り体に言えば〝デザイナーベビー〟とか、〝ホムンクルス〟と呼ばれるものだよ。人工的に創った生命体。その中でも一定の基準に達した実験体を、私は〝こども〟と呼んで、日常生活を送らせている。……私としては、そんな陳腐(ちんぷ)な言葉で語りたくはないんだけどね。私流に言うなら、あの子達は可能性の欠片(かけら)さ。これから生まれるであろう物語の、ね」  そうして、彼女は少しだけ目を細める。 「本来、あまり来客は好まないんだけどね。君を受け入れたのは、悪意が無いと判断したからだよ。世間の倫理やら道徳やらを持ち出すんじゃなくて、君は純粋に知りたがってる。この施設(はこにわ)のこと、こどもたちのこと、私の研究のこと。どんな事が、ここで起きているのか。そういう知識欲は好きだよ。だから、……ちゃんと生きて帰すし、危害は加えない。嘘はつかない主義だから、信用してくれていいよ」  ぞっとする言葉を交えて、彼女は口元に弧を描く。それから、こちらへ向かって右手を伸ばした。 「所長の日野尾(ひのお)だよ。――改めて、君を歓迎しよう」  彼女の手を握り返そうとして、一瞬、躊躇(ためら)う。彼女の白衣を汚す、鮮やかな赤。自分の目線に気付いた彼女は、ああ、と袖口を確認して、軽くまくった。 「ちょっと立て込んだままの出迎えになったからねぇ。安心して。この血は」  握手をする。緩く握り返してきた彼女の手は、〝普通の女性〟と何一つ変わらなかった。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!