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case4 眠兎
僕の世界は二つある。
ひとつは、日野尾先生と、大規先生と、何人かの〝こども〟で構成される、狭く閉じた世界。
もうひとつは、学校に通っていて、家族がいて、色んな友達やクラスメイトとわいわいがやがや、うるさくて目まぐるしい世界。
二つの世界の僕は、性格もまるで違う。目まぐるしい世界の僕は、友達の世話を焼いたり、片思いに悩んだり、色々と忙しい。一方で、今の僕は、誰かの世話を焼こうなんて思わないし、そもそも恋愛感情を抱くほど、誰かに心を寄せることもなければ興味もない。
こんなにも違う、僕と僕を取り巻く世界。けれど、少なくとも「今の僕」はその両方を同じ「自分」として認識している。どちらか片方が本物で、どちらか片方が偽物、という感覚はない。
二つのまるで違う環境と、まるで違う人格を有していることに関して、得しているのか、損しているのかは分からない。「向こうの世界の僕」は妙なトラブルに巻き込まれることも多いし、誰かの相談役になることも多い。「今の僕」は、僕の人格及び状態について、先生達に良く思われていない。
生きていきやすいのは、恐らく閉じた世界の方。大人しく先生の言うことを聞いて、もう片方の世界を否定するなら、多くのリスクは回避できるし、それなりに平穏にやっていけるだろう。でも、どちらがより幸福かと問われれば。
「……どっちだろうなー」
懲罰室の床に仰向けになって、天井に向かって独りごちた。
*
「みんとー! サッカーしよーぜー!」
僕の部屋のドアが勢いよく開いて、真白がサッカーボール片手に飛び込んできた。
「君が公正世界仮説について、ざっくりでいいから説明出来たら遊んであげる。あと、うるさい」
「えー」
真白は馬鹿な上に声が大きい。声の調節機能が壊れてるんじゃないかと思う。馬鹿だから扱いやすいことくらいしか救いがない。もう片方の世界の僕は、この馬鹿を信頼し愛し尊敬し一喜一憂しているけれど、僕は鬱陶しいとしか思わない。
もっとも、向こうの世界の真白は同じ馬鹿でももう少しまともだけど。
何ゆえそこまでの価値と幸福を、向こうの僕は他者に見いだせるのか。価値基準や思考パターンを向こうに合わせれば、理屈は理解できなくもない。人間の理不尽さを見飽きるほど見て心に頑丈な鍵をかけた、〝僕〟の心を動かしたヒーロー。そう、理屈は分かる。でも、残念ながら今この〝僕〟に、それを心で理解するのは難しい。
「みんとはいっつもむずかしいことばっかりいうよなー」
「真白が馬鹿なだけだろ」
「ばかじゃねーもん。いーよ、おーきせんせーとあそぶから」
しっしっ、と犬を追い払うように手を振ると、真白はムッとした顔で癖のある長い黒髪を翻す。ばたん、と、大きな音を立ててドアが閉まった。そのままばたばたと、廊下を足音が遠ざかっていく。
……このドア、いつかあいつのせいで壊れるのではなかろうか。
もしも本当にドアが壊れたら、あいつも懲罰室送りになるのだろうか。怯えたり、震えたり、泣いて先生の足にしがみついたりするのかな。
「ふへへ」
想像したら、少し楽しくなった。あいつ、まだ懲罰室知らないもんな。
向こうの僕は、どういう訳か、こちらの僕を認知しない。向こうの世界にいる時は、向こうの世界だけが僕にとっての唯一の世界になる。もし、いつかこっちの世界の自分自身を知ったらどう思うだろう。多分、絶対、嫌がりそうだ。認知的不協和で吐くかもしれない。
「無意識レベルで避けてるのかな、僕は僕を」
自分に避けられるというのも、どことなく悲しい気がするが、今は関係のないこと。
窓の外を見ると、ちょうど真白が大規先生と、庭に出てくるところだった。黒縁の眼鏡越しに、へらへらと真白が笑っているのがわかる。身振り手振りを混じえながら、大規先生に何かを話しかけているようだ。
よくもまあ、そう無防備に自分をさらけ出せるよな。
「ばーか」
窓に背を向けて、部屋を後にする。
*
廊下に出ると、蒼一郎と十歌に出くわした。蒼一郎が歩く度に、点滴棒の先のパックが揺れる。中身は、半分くらいだろうか。
「眠兎くん、先生知らない?」
「どっちの」
「大規先生のほう」
パックを指差しながら、蒼一郎が言う。
「真白と外でサッカーしてるよ」
「ありがとう。十歌くん、行こ」
片手に点滴棒、片手に十歌を連れて、蒼一郎が歩き出す。
僕も彼等とは反対方向に歩き出そうとして――視線を感じて振り返ると、十歌がこちらをじっと見ていた。
「十歌くん?」
蒼一郎も不思議そうに十歌に声を掛ける。
「……何?」
不愉快だな、と思いながらも、とりあえず用事を聞くことにする。
十歌は何も言わない。
「何だよ」
もう一度聞くが、十歌は僕の声を無視して、何も無かったかのようにこちらに背を向ける。
腹が立った。
つかつかと歩み寄り、背中に思いっ切り蹴りを入れる。
「十歌くん!」
驚いた蒼一郎が声を上げる。
「眠兎くん、なんで、だめだよそんな」
「何が? 勝手に転んだだけじゃないの?」
無言の十歌と、何か言いたげな蒼一郎を無視して、その場を立ち去る。
*
「やっほー」
「あ。み、と、くんだ。みと、くん」
ぬいぐるみに囲まれた部屋の主が、僕の声を聞き分けて、きょろきょろと声の先を辿り、嬉しそうにこちらを向く。
ほとんど視力のない白雪は、声で相手を識別する。いつも沢山のぬいぐるみに埋もれるように座って、肩にかかる緩い巻き毛を震わせながら、一人で何かを呟いては笑っている。僕よりも前、恐らくこの〝はこにわ〟の中でも古参の〝こども〟だから、先輩と呼べなくもないが、僕にとってはちょっと壊れた遊び道具。
「みと、く。これ、ね、くれた。せんせ、やさし。かわい、の」
真新しいテディベアを両手でぎゅっと掴んで、僕の前に差し出す。
「へー。可愛いね」
心にもないことを言う僕に、白雪はとても嬉しそうにうんうん、と頷く。
「ひのおせんせが、くれた」
「日野尾先生が?」
「しぃ、い、こ、だから、ぷれ、ぜ、と! って!」
可愛いね、可愛いね、と、白雪は繰り返す。
「そうだね」
ほぼ視力のない女の子に贈るなら、せめてテディベアではなくオルゴールだろうと、向こうの世界の僕なら頭を抱えそうなものだけど。
「白雪は可愛くていい子だからね」
先生お気に入りの、可愛くて都合のいい〝こども〟だからね。
「みと、くん、も、しぃ、すき、しょ?」
「そうだねー」
再び、心にもないことを言う。何でも真に受ける白雪は、「えへへー」と本当に幸せそうに笑う。
ああ、何だか苛々するなぁ。
「あそ、ぼー」
「いーよー」
僕は笑って、右手を握り締める。そして、白雪の白い頬目がけて振り下ろす。
「あ」
一回。二回。三回。
「あ。あ。あ゛」
四回。五回。六回。
「あ゛。あ゛っ。きゃははは」
僕と白雪の遊び。
一方的に僕が白雪をいたぶって、一方的に白雪が僕にいたぶられる遊び。
白雪はぽろぽろ涙を零しながら、身体をよじらせて笑っている。
初めて彼女を殴った時も、その次も、その次も、その次も、白雪は怯えも怖がりもしなかった。ただただ、声を上げて楽しそうに笑った。そしてまた、僕が部屋を訪れれば、嬉しそうに遊ぼうと言う。僕は殴る。白雪が僕を拒絶することは、今日まで一度もない。ただの一度も。
痛くないのだろうか。
辛くないのだろうか。
苦しくないのだろうか。
殴れば殴るほど、分からなくなった。分からないから、また殴った。だって、声を上げるだけなら、ウサギや鳥と、同じじゃないか。
白雪にとってこの世界は、どう認識されているんだ?
「……白雪さぁ、幸せ?」
殴る手を止めて、呟く。
「……?……しぁ、……せ?」
たどたどしく、彼女は繰り返す。まるで、初めて聞いた異国の言葉のように。
「この世界。この生活。今の自分。白雪は、幸せだと感じる?」
「幸せに決まってるでしょ」
ノックも無しに入って来た日野尾先生が、片手に救急箱を持って立っていた。
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