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『アリスになりたいの!』
子供の頃にそう語ると、大人達は皆『カワイイね』と言ってわたしの頭を撫で、チョコレートや飴玉を握らせてくれた。しかし大人になってからそう語ると、呆れたように笑われるか冷たい目を向けられるだけになった。子供の頃と変わらないのは、誰も彼も本気に取り合わないということだけ。皆が変わらないから、わたしも変わらずに居た。
23時40分、東京のとある一角。
「はあ」と溜息を吐き、わたしはクラクラする頭を冷たいガラスに押し付ける。電気の消えたショーウィンドウには、上品でスタイリッシュな都会的ワンピースを着こなすマネキン人形。その上にぼんやり浮かび上がる、野暮ったい女の顔。残業上がりの飲み会で、終電ギリギリまで解放してもらえず、大して美味しくない上に“飲んでも体が伸び縮みしない”面白味のない酒を飲まされ続けたその顔は、生気がなくげっそりしていた。
職場の人々との交流が苦手で、飲みの席も出来るだけ回避してきたわたしだが、今日は自分がかつて教育係を務めていた後輩の昇進祝いということで、半ば無理矢理に参加させられてしまったのだ。大人が集まると碌なことを話さないからウンザリする。恋愛というほど綺麗ではない情欲の話や、それよりいくらかはマシだが、意識高い系の仕事に対するご高説。本当にくだらない。自分もそのくだらない一味なのだと、思い知らされるように感じる。
「気持ち悪い」と口を突いて出た言葉が、酔いによる吐き気からきたのか、別の何かに対してのものなのかは、自分でもよく分からない。背中の方で「大丈夫ですか?」と心配そうな声がして、わたしはガラス越しにその男を見た。
大神くん。彼こそが今夜わたしがブルーでいる原因の、先輩を追い越して昇進したばかりの生意気な後輩だ。櫛を通したら抜けなくなりそうなモコモコの天然パーマ。色白なところと、いつも眠そうな目から、周りから“ヒツジくん”というあだ名で呼ばれている。“オオカミなのに羊”というところが面白いらしい。単なるいじられキャラかと思いきやそうでもなく、世渡り上手で、仕事ぶりは実に優秀。頼りになるがどこか油断できないような、食えない男だった。
「大神くん、なんでここにいるの?」
「あなたの具合が悪そうでしたので。歩けますか?電車、間に合います?」
紺色のセットアップを着こなした大神くんが、わたしの隣に並ぶように立つ。ガラスに映るその上手く引き算されたシンプルな装いは、大人の品格がありとても洗練されたものに見えた。細フレームの丸眼鏡がまた何とも小洒落ている。ショーウィンドーの中のマネキンとお似合いな、都会的男性だ。
対してわたしの格好は……この街からも、社会からも、少しずれている。
白いパフスリーブのブラウスに、水色のジャンパースカート。ジャンパースカートはドレスみたいで好きだった。足元は白いレースの靴下に、クリアカラーのビーズミュール。このミュールはガラスの靴みたいでとても可愛く、一番のお気に入りである。髪にはパーマをかけて、リボンのカチューシャ……は平日は我慢している。
聞こえの良い言葉で言えば『個性的』。裏では『年甲斐の無い恰好』と評されているだろうこの格好は、わたしの願掛けだった。このように、いつでも童話の世界に迷い込んでしまえるようなファンタジックな格好を心掛けていれば、いつか“迎え”が来るのだと信じているのだ。童話の世界で、現実的なデニムなんてもってのほか。スーツも絶対に駄目。不思議の国にミスマッチなものは身に付けないようにし続けてきた。
……30代のわたし自体がもう、ミスマッチなのだろうか。
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