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 幼い頃、祖父はしばしば親水公園へ連れて行ってくれた。親水公園とは、自然の水と親しむことができるように、海辺や河川、池のほとりなどに作られる公園のこと。手漕ぎのボートに乗るのが楽しみで、祖父は櫂を握り、私は保育園で習ったこぶねのうたを歌っていた。  その歌が十九世紀初頭に米国で作曲された童謡だったと知ったのは、六歳のとき。祖父と別れて両親と渡米してからのことだった。私はすぐに英語の歌を覚えて口ずさんだ。たゆたう黄色い二番のボートはもうどこにもなかったけれど、夢の中では焦がれる祖父と一緒に乗った。異国の地で成長し、もう夢を見なくなった頃、祖父はこの世を去った。    *  四月九日、午後六時十分。高校ニ年生になって三日目の帰り道だった。 「もしもし、お母さん?」  帰宅している途中、ちょうど母から電話が入った。 「いま駅なの。今日は、ちょっとよるところがあったから」  通話中、遠くのほうから人の声が飛び交っているのが聞こえた。私と会話しながら、同時に母は別の誰かに指示を送っている。 「わかった。ごはん準備しておくね……いいって。気をつけてね」  母は転勤が決まった。近頃は仕事の引き継ぎでせわしない。職務に忙殺されているのは、なにも今に始まったことではなく。私はずっと多忙な両親の姿をまのあたりにして育った。米国在住時は学校が終わると家庭教師と過ごしていた。その女性は日本人で子守にも慣れていたようだったけれど、とにかくあまったるい香水がきついのと、過剰にぐるぐると頭をなでたり、押しつぶす勢いでハグをしてくるのが気になってしまって、私はあまりなついていなかったと思う。  電話を切ってから二十分余りで自宅に着いた。オートロックの共同玄関へ。私は十八階建てのマンションの十階に母とふたりで暮らしている。   玄関ドアを開けると仄暗い世界が広がっていた。戸の閉まる音が渡り廊下に残響する。  自室に入ってまず制服を脱ぐ。ブレザーをハンガーに掛けて眺めると思いだす。日本の学生服はカワイイ。そう瞳を輝かせていたエミリアという隣の席の女の子。ブルネット色のカールヘア。高い鼻と碧眼で、背丈は私と同じくらい。バレエが上手。トマトが好きで、ナスが苦手。ピンク色でイニシャル入りのハートのキーホルダーをバッグにつけていた。私は色違いで『Y』をつけていた。それをかばんごと、引っ越しの際に置いてきた。  紺のジャケット、光沢のあるリボン、チェックのプリーツスカート。気に入っていないわけではないのだけれど。私にはもったいないと思うことが往々にしてある。  ルームウェアのワンピースを頭からかぶった。さてさて、と切りかえて夕飯の支度にかかる。その二時間後、母は帰ってきた。    開口一番、「ゆら。ただいま!」とテンションが高かった。 「ごめんね。今日は急に仕事入っちゃって。ほんと助かったわ」 「大丈夫。できてるよ」  ダイニングテーブルに用意されたディナーを目にした母は眉を下げた。涙にむせぶ仕草までして、全身で感動を表現してくれる。 「ほんとに、ゆらは料理のセンスいいわよね。このサーモンのムニエルなんかディルとレモンとの相性抜群。ああ、母は幸せです」  私としては、それほど料理の腕に自信があるわけではなかった。けれど、味と見た目ともにセンスがいいね、と親指を立ててもらえるのなら、それは両親が多国籍のレストランへ連れ回してくれたおかげだ。なかんずく父は、趣味で内装や料理の盛りつけに定評のあるお店へあししげく通っていた。母には内緒だと人差し指を立てて、星の付くようなお店へおともさせてくれたこともある。クリエイターの仕事をしていた父が身を置く世界は、幼い私の好奇心をくぎづけにしていた。初めて仕事用のパソコンを見せてくれたとき、ディスプレイに映る万華鏡のようなデジタルアートが瞳の中へ溶けていった。  そうやって。十歳にも満たなかった私は母の腐心も知らずに浮かれていた。当時、新薬の開発に従事しながら家事子育てを両立させようと骨身を削っていた母の前で「お父さんってすごいよね」と口にしたのはあやまちだった。常に優しくおおらかだった母は取り乱し、声を荒げた。私はようやく家庭内のひずみに気がついたけれど、そのときはもう、両親の間で生じた亀裂の修復は不可能のようだった。  食事中、正面から気配を感じて手を止める。今日はやたらと母の視線が気になった。 「ねえ、ゆら。いつも仕事ばっかりで、話聞いてあげられなくてごめんね」 「どうしたの急に。話なら聞いてくれてるよ」  私がそう言うと、母はカトラリーを皿に置いて顔を曇らせた。 「親の都合で大事なひとり娘をふりまわしてばっかりだなって思ってる。あの人とのことも、今度のことも。こんないい娘を持ったのに。わたしは母親失格ね」 「そんなことない。やめて。なに言ってんの」  今夜の母は一段と疲れている。気分の浮き沈みが激しい。なにか明るい話題を。 「あのね、お母さん。今日の放課後……」 「え、放課後?」 「……ううん。なんでもない」  明るい話題なんて。母からしてみれば明るい話題でもないな、と私は話を引っ込めた。 「なあに。学校でなにかあった?」 「ないよ。たいしたことじゃないから気にしないで」 「そう。片付けのこととか、買い物とか、必要なことがあったら相談してね」 「うん。ありがとう」  私達は、三ヶ月後に米国東部へ引っ越す。転校の手続きは済んでいるけれど、直前までクラスに公表するのをふせて欲しいと頼んである。  なんとなく、こうなる気がしていた。だからあえて友達も作らなかった。二年前に両親の離婚が成立し、帰国するときに母はほのめかした。「仕事でまた日本を離れるかもしれないから」と。ただせめて、高校三年間くらいはやりとげたかった。  夕食後、部屋の引き出しから一通の手紙を手に取った。古びてきばんだ紙面とにじんだペンのインクから過ぎ去った歳月を感じる。これは、亡き祖父の遺品だ。この手紙をなんとかしたい。私がこの町を離れる前に。
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