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俺に宛てた一枚の写真。メッセージが添えてあった。
【わが弟、舟へ】
四月七日。高校二年生になった最初の朝である。一年前に太平洋の向こうへ渡った姉から家族宛に手紙が届いた。半年ぶりの便りには、写真が十枚ほど入っていた。うち一枚は俺宛で、裏にはこう書いてあった。
【人間は自然に順応することを学ばねばならないのに、自然が人間に順応してくれるように望んでいる】
よくはわからないが偉人の名言かなにかだろうか。引用なら出典を載せておいてくれ。なんだろうかこの説教くさい文言は。怠惰に満ちた学生生活を改め、襟を正して環境保護活動にいそしめとでもいうのか。いや、怠惰は語弊があろう。勉学には真面目に取り組んでいるつもりである。いったいなにが言いたい。げんなりして片方の口角がひきつった。
姉は高校生の頃から環境問題や海洋保護に関心があったようで、大学に入学してからは俄然意欲を燃やし勉強に邁進した。卒業後、研究者を志して米国の大学院へ進んだ。
突出したバイタリティーに感嘆のため息がでてしまう。漫然と高校生活を送っている俺からしてみれば、姉はいわゆる『意識高い系』。部活に入らず、趣味といったらせいぜいネットで将棋をさすか川釣りくらい。そこそこの成績をおさめていれば、いたずらに青春の時間を持て余していても親は文句を言わない——そんな俺は、あの姉とは似ても似つかない。いやもはや、似ていなくてよかったとすら思ってしまう。
階段を下りてリビングへ入ると、妹の海音がほとばしる目力で朝食にくらいついていた。
「ほにーちゃん、ほはよう」
「かっこむなよ。消化に悪いぞ」
妹から皿の上に整列するおにぎりへと視線を移す。三角形の白米に、ぴたりとへばりつく黒い物体をけだるい目で見つめた。なぜ海の苔(コケ)と書いて「のり」と読めるのか。諸説あるものの、いまだに合点がいかない。ついでに、なぜ我が家は朝からおにぎりなのか、といまさら問うてもしかたのないことを自問してみる。いかんせん、賞味期限切れすんぜんの海苔を消費しなければならないのである。過去に姉がトーストを所望したところ、母はチーズの上に海苔を乗せた一品をふるまった。あれはいただけなかった。高校に入学してから被害は弁当にまでおよんでいる。ほぼ毎日海苔弁。海苔入りの卵焼き、肉巻きの上から海苔巻き、とどのつまりはサンドイッチ・イン・海苔。
我が大塚家は、曽祖父の代から海苔の卸売り店を営んでいる。祖父は数年前に引退して父に店をゆだねた。もとをたどればご先祖様方は、代々海苔の養殖をしていたらしい。
「ずいぶんゆっくりね。舟、始業式でしょ」
母から小言が飛んできた。
「わかってる」と答えておにぎりをひとつ。こちらが食べ始めると、大抵同じタイミングで妹が食べ終わる。
「じいちゃん、いってくる」
ふすまの隙間からのぞくと、「ああ」と返事した祖父は軽く手をあげた。和室の隅に置かれた将棋盤をちらっと見る。昨夜、対局にまた負けてしまった。
自宅を出る頃には、父は営業開始の準備にとりかかっている。
「いってくる」
「声がちっせえぞ」と父が投げつける。あんたは部活の顧問か、と返したくなる。
「いってくる。午後、品出しね」
喉から張り上げると、「よし、いってこい!」と大声で背中を押された。
四月の始業式は、夏休み明け独特の空気のよどみのようなものがない。スタート地点から走りだすときは、なんぴとも力が有り余っているものである。例えばうちの校長がそうである。新一年生にああだ、最上級生にこうだ。とってつけたように中央の二学年へ。その序列はおかしくないか。「君達もいよいよ来年は!」と校長はエールを贈る。
「……浦辺高校は創立以来の伝統的な校訓とともに、近年ではグローバルな視野をつちかい、国際社会に貢献できる人材の育成をかかげています。このめぐまれた環境で文武両道に励んでいる生徒諸君には輝ける未来が待っています」
どこかの大国の大統領を彷彿とさせるいさましさ。だが我が校の長はマイクに好かれていないのか、絶えずひどいハウリングを起こしていた。
校長が挨拶文を読みあげ退場すると、咳払いしながら教頭はまだなにか述べることがあるようだった。校歌斉唱も新任教師の紹介もすんだろうに。始業式の幕引きをはからない様子に生徒達はそわつき始めている。
「三月に全国高等学校英語弁論大会の本選がありました。結果、我が校二年一組の姫野ゆらさんが見事、優勝に輝きました」
教員勢が拍手をすると、つられたように全校生徒も手のひらを叩いた。
ところで二年一組は隣のクラスだが、姫野ゆらという名は聞いたことがあるような、ないような。
「ねえ、舟。姫野さんって帰国子女なんだよ。六歳から中三までアメリカにいたらしい」
背後から耳打ちしてきたのは陸だった。岡本陸とは中学時代からの付き合いで、中学のときもいまも新聞部。いわずもがな記者志望。そうだ、姫野ゆらという氏名をこいつから聞いたのだった。春休みに会ったとき、校内の掲示物に特集を載せるから、とかなんとか話していたな。
「父親はカリフォルニアでデジタル・アートの仕事をしてるんだよ。母親のほうは有名な外資系製薬会社に勤務してるんだ。父親はアメリカに残ったまま、母親とふたりで日本に戻ってきたんだって」
そんな個人情報をなぜ知っている。と、ツッコミたいところをおさえた理由は、カリフォルニアというのが引っかかったからだ。姉がいるところじゃないか。
「今回の名誉をたたえて学校側からも姫野さんに表彰状を贈りたいと思います」
教員一同は再び拍手する。そして教頭は続けた。
「また本日は、弁論大会で発表したスピーチを披露してもらうことに相成りました。では、姫野さんお願いします」
さすがに少しざわつく展開だった。これまでも、音楽コンクールの入賞者が演奏したりしたことはあった。個人的には、さっさと教室に戻りたい。呼名での表彰で終わりにしてほしいものだとつねづね思う。
「楽しみだね。御拝聴といこうじゃないか」
陸は耳元で軽やかにささやいた。姫野さんも災難だな、と感じるのは俺だけなのだろうか。
遠目からだと、彼女の顔は明確に見えなかった。背筋がまっすぐで黒目に意志を宿しているのはわかった。それが彼女の本来の姿なのか、あるいは、その場に立たされていることへのあらがいなのかはわからなかった。
姫野は英語を暗唱し始めた。とたんに、皆の視線は彼女だけに向けられて、脱帽していたに違いなかった。それは非の打ち所がない英語スピーチ。淡々と機械的に読むのではなく、感情と気迫を込めて、まるで聴衆に訴えかけている。
ありていにいえば、流暢過ぎることと、使用している単語と構文が高度で追いかけるのがやっとである。ともすれば、受験生の三年を除いてほとんどの学生が皆目見当もつかないだろう。
「ねえ、舟。すごくない? なんて言ってるかわかる?」
うるさい。ちょいと黙れ、と返す。俺は耳をそばだてた。彼女は湖のことを話している。漁師、汚染水、死にゆく生命……。なるほど、おおかた理解できた。
——私達の美しい水を返してください!
彼女がその一句を叫んだ直後、俺は、いや、体育館内の空気が張りつめ、ひしめく聴衆はこわばった。皆が壇上を凝視している。しかし姫野は数百の眼差しを向けられてもなお、いささかもひるんだ様子がなかった。
教室に戻ると前方から陸が顔を近づけてきた。陸は同じ窓際で俺の前の席である。
「いやあ、姫野さんすごかったね。よくわかんなかったけどすごかったよね」
よくわからなかったなら、なぜ凄いとわかる。おまえはなにに感動してるんだ。
「ペラッペラだったね英語!」
「そこかよ」
「ほかになにがあるの。じゃあ、舟は姫野さんがなんて話してたかわかったの?」
「公害についてだろ。特に水質汚染。魚が死んで、漁師が仕事できなくなったとか言ってたな。弁論大会ってのは、内容も評価対象だから、戦争と平和とか貧困とか環境汚染とかはお決まりのテーマなんだろう」
「おお。さすが舟。つねに成績学年トップスリー入りは、だてじゃないね」
「べつに。することないから勉強してるだけだ」
俺は頬づえして窓の外に顔を向けた。陸は怪しい含み笑いをしている。
「あれはね、とあるアメリカの田舎であった事件なんだよ」
「アメリカ?」と陸に視線を向けた。
「そう。工業発展の著しい繁栄期に起きた公害のこと。ほら、イギリスだと産業革命で大気汚染が問題になったりしたでしょ」
「で、姫野のスピーチ内容って?」
「なんでも、その町では工場の建設が進んで、そこで出た産業廃棄物が湖や河川に大量に流れてしまって。生活水まで汚染されてしまったんだって。魚や貝も次々死んでしまったのさ」
なるほどそれで、私達の美しい水を返してくださいか。あのフレーズは一際感情がこもっていた。怒りと悲しみが混在したような口調で、もう二度と大切なものを取り戻せない、そう言っているかのような絶望感を感じさせた。
「なんだよ、陸は原稿内容知ってたのか」
それな、と指パッチンして目を細めた友人。
「当然だよ。今月号の特集なんだから。取材してゲラ書いたのは、僕なんだから」
「はいはい」と、そっけなく返しておいた。僕なんだから、というところに思いっきりアクセントを置いた陸である。
「姫野さんて清楚だよね。舟はどう思う?」
陸は口元に手のひらを当てくすぐったい声を出す。どうもこうも、俺の知ったことか。清楚。異性に向かってそういう言葉は安易に口にしない主義である。
「凛としてて絵に描いたような美人だよね。ちょっと近寄りがたくって。でもそこがミステリアスというか」
「おい、陸」
友人の主観的な感想を一蹴した。彼に訊くべきことがある。
「原稿内容知ってたのに、わざと知らないふりして俺にふっかけただろ?」
「……うんっ」
開き直りやがった。しかもあっけらかんとして「うんっ」と、乙女のように語尾が弾んでいた。俺は舌打ちして窓の外の花曇りへ視線を移した。
本日は午前で解散。始業式のためだけに登校してきた自分を褒めたい。次々に教室を出ていく学生達。逆に教室が静かになっていくのをスマートフォンをいじりながら待っている一部の女子達。俺もさっさと退室せざるをえない。昼食を済ませたら、午後は店の手伝いがある。
校舎の出入り口で外ばきに履き替えるときだった。そこにいたのは、式典の折に全校生徒の前で完璧な弁論を披露した学生。
姫野ゆらと口をきいたことはない。あちらが俺のことを知っているはずもない。しかし彼女は目が合うとじっと見つめ返してきた。それはいささか不自然だった。こういうときは十中八九、目をそらして行ってしまうものである。にもかかわらず、なぜ彼女はただならぬ様子で俺を見ているのだろう。
「あの、なにか」
「いえ」
彼女は伏し目になって答えた。
そうですか、と受け流して通り過ぎる。姫野の顔立ちを間近で見たのは初めてだった。まっすぐ整った鼻筋と広い二重。陸の主観的評価は、存外、客観的事実であった。
のらりくらりグランドの隅を歩く。【力の限り駆け抜けろ!】の横断幕はビビットな赤背景に白字。陸上部はなぜ、【止まれ】の道路標識と同じ配色にしてしまったのだろうか。ちょうど部員が風のごとくすれちがっていく。「自分の殻を打ち破れえ!」との野球部員のおたけびのあと、バットから弾ける高音域のカキーンという音。ダンス部は重低音とむち打つようなビートを流している。吹奏楽部のフルートもかすかに聞こえる。アップダウンの激しいリズムとカナリアのような旋律があいまって不協和音。みなさんファイト。ご苦労さまです。俺は、帰宅します。
さくら川という小川沿いを行く。さりげなく耳に差していたイヤホンを取った。
何者かにあとをつけられている気配がする。前方に歩行者はおらず、ちょうど人通りのない時間帯。足を止めてみると、ワンテンポ遅れて後方から革靴の音がした。
あえて振り返らず再び進んだ。数メートル行ったところで足を止めてみた。やはり背後の足音は遅れて止まった。
これは、露骨すぎやしないか。尾行と呼ぶにはあからさますぎる。こころして。俺は振り返った。
「え、なんで?」
卒倒しかけた。なぜ背後に姫野ゆらがいるのか理解が追いつかない。彼女は無表情で二、三メートル先にたたずんでいた。
「あ、あの、なにか」と同じせりふを吐く自分がふがいない。
「こちらに用がありまして」
「……そうですか」
あとをつけられているだなんて自意識過剰だろうか。前に向きなおり歩みを再開した。目先の曲がり角が視界に入ったので安堵する。さすがにあの角を右には行くまい。左に曲がって進めば駅周辺の大通りへ通ずる。右折しても商店街はおろか、閑静な住宅街がつらなり、お店はうちの海苔屋と備長炭販売所と古い金物屋くらい。米国帰りのお嬢様が立ち寄るとは思えない。
ところがしかし、足音は離れていかない。どうやら彼女も右折した。ついに気分がそわついてきたので足を止め、振り返った。
「あの。こっちになんか用があるんですか?」
姫野はまっすぐした顔で質問を受け止めた。
「はい。私は大塚さんに用があります」
やはりそうなのか。だが思い当たるふしがない。陸が新聞部関連で彼女と接触していたとしても、俺は陸と同じクラスでうしろの席の大塚舟というだけでそれ以上でも以下でもない。行事や選択科目で関わったこともないはず。と、思考をめぐらせていた俺に姫野は水をさした。
「私は、大塚海苔店さんに用があるんです」
姫野は人差し指を右へ向ける。同じほうへ頭を向けると、いつのまに自宅の手前まで来ていた。
「海苔。……へえ、うちに海苔を買いに来たんですね」
理にかなっている答えではあるが、口角を上げつつも自分の目が笑えていない自覚はある。
すると、けたたましい音を立てて店の扉が動いた。「お、舟。もうけえったのか」と父が眉を高くする。
「ああ、ただいま。ていうか。お客さん……」と俺が口にすると、姫野は「あのやっぱり」とさえぎった。
「まだ心の準備が。帰ります」
海苔を買うのに果たして心の準備が必要だろうか。引き止める間もないほどの勢いで行ってしまった。彼女いわく、俺個人に用件があるのではなく、海苔を買いに来たということである。それは腑に落ちない。あの姫野がわざわざ海苔屋で買い物をするのか。
「おい舟、つったってないで。とっととメシくってこい」
顎に手を置いて考えていたところ、父に呼びかけられた。俺は頭上の木製の看板を見上げた。
『大塚海苔店』は、うみうら市のふるい町中にある。うみうら市の歴史を江戸時代までさかのぼると、人々は稲作や漁をして暮らしていた。明治になって海苔養殖の技術が普及すると、うみうらの干潟は海苔作りが盛んに行われるようになった。そんな小さな村だった。それが戦後の急速な都市開発によって、東京湾にめんした沖は広範囲にわたり埋め立て地となった。
江戸から昭和まで、海苔養殖業がさかんだった澪辺と浦辺地区は、いまでは「元町」の愛称で親しまれている。住宅は日本家屋が多く歴史的建造物も残り、「旧市街」とシャレた表現をする人もいるが、それは大抵どちゃくの人間ではない。
そして、海面埋め立てが進んだエリアは「新町」と呼ばれている。がどうやら近年は「ベイエリア」(俺はベイの愛称で呼んだことは一度もないが)のほうが市民権を得ているようである。各地区が誕生した順に海宝、北渚、汐音、新洲、日の浜、そして安澄と続く。オーシャンビューのタワーマンションやショッピングモール、駅ターミナル。映画館や音楽ホールなどの文化施設が次々と建設され、大学のキャンパスまである。
新町に関しては人口も年々上昇傾向。地区内を循環する路線バスも充実している。数年前には全国住みたい町ランキング第三位になった。いまとなっては、元町と新町の土地の比率は一対四。市全体の面積は三倍以上となった。すなわちこのまちは、飛躍的な発展をとげてきたのである。——とまあ、諸々は市内の小学生が三、四年生になると学習する郷土史である。
四月八日。平常日課は明日からだったが、運悪く俺は掃除当番で居残っていた。同じ班の陸も一緒だ。彼は、「新入生向けに学校紹介の号外作っているんだ。掃除なんかしてるひまはない。早く部室へ行きたい」とうなだれている。
「手を動かせ。つべこべ言わず、さっさと終わらせればいいだけだ」
俺はちり取りを手にしてしゃがんだ。
「海外の学校って生徒が掃除やらないんでしょ。まったくだよ。僕らの本業は学業なんだよ」
陸は俺の正面に来て腰をかがめた。
「部活は学業に含まれるのか?」と俺は問う。
「部活動は僕達の青春に不可欠だ。でも清掃は必須だろうか。美化委員とかやりたい人達が有志でやればいいと思わない?」
「いいか、陸」
真面目に抗議してきた友人には、真摯に答えるべきだと俺は思った。
「青春とはなんだ? 部活が青春なら帰宅部の俺には青春という概念がそもそも適応外になる」
「うわっ舟が言うと説得力パない。軽く同情してきた」
「あと海外で清掃当番がないのは、学業に専念させるためだけじゃない。校内清掃員は立派な職業だ。クリーナーの職をうばうことになるだろ」
「あ、それは姫野さんも言ってた」
「なぜ姫野がでてくる?」
「アメリカでの生活について取材ついでに聞いたからだよ。守秘義務あるから、詳しいことは言えない」
陸の目と口は、弧を描くように笑っている。若干腹が立つがこの場は抑えた。それとなく訊いてみる。
「姫野って家どこらへんか、知ってる?」
「うん。安澄地区だってよ」
「市内に住んでたのか。つか、新町の安澄って……」
「うみうらで一番新しい新興住宅地あるよね。あと去年ビーチが出来たよね。人工砂浜だけど」
「姫野って金持ちなんだろう。新町には私立やインターナショナルスクールもあるのに。うちの高校に来るのは、なんか妙じゃないか」
「そうかな。妙って?」
実は昨日、と言いかけて口をつぐんだ。
「いや、なんでもない」
「え〜あおったのに」
「そっちこそ。守秘義務とか言ってただろ」
「岡本くん、大塚くん、あのさあ、こっちもう終わったんだけどさあ。そっちまだかなあ?」
同じ班の女子達をいらつかせている。文字通り殺気を察知したので反射的に起立した。陸と声をそろえて「すいません」と陳謝する。
「ちなみに、姫野さんって部活入ってないよ」
「だからどうした?」
「べつに。よし、じゃあね」
陸は、ほうきを清掃ロッカーへ戻しに走り、ぱんぱんで破裂しそうなリュックを右肩にかけ、手のひらを向ける。韋駄天走りで教室を飛び出していく。昨日から姫野ゆらのことを考えているがどうも釈然としなかった。
四月九日。登校して早々、靴箱の前で固まってしまった。シューズロッカーになにか紙が仕込まれている。左右を見回してさっと紙切れをとった。二つ折りのメモに記されていた内容を一瞥し、すぐポケットへしまった。どうやら昨今の隔靴掻痒は、今日中に解決できそうである。
同日午後三時三十分。終礼後、指示どおりにその場所へ向かった。メモにはこう書かれてあった。
今日の放課後、澪辺橋で待っています。——姫野ゆら
彼女の手書きは達筆であった。ところで澪辺橋は、さくら川という小川にかかる歩道橋。端から端までの長さは十四メートルほどである。ひねこびた橋の親柱付近で姫野は待っていた。
「本当に来てくれたんですね……」
「姫野さんって意外に大胆だよね。手紙とか、入れてるところ誰かに見られたらやばいと思うよ」と言うべきことは言っておく。
「ごめんなさい、そうですよね。でもほかに思いつかなくて」
「いや、いいけど。それで?」
彼女は黙り込んだまま、首を折るように爪先へ顔を向けている。これはなかなかひっぱるな、と俺は眉をよせた。いたく煩悶しているご様子で、このごにおよんでまだためらっている。ほどなくして頭を上げると口火を切った。
「母方の祖父が亡くなったのは、私が十三歳のときでした。アメリカで訃報を受け取って一時帰国したんです。祖母は先に他界していて、祖父は一人暮らしだったんですけど、心臓の持病で倒れてそのまま」
「やぶからぼうだな。なんの話だ?」
突拍子もなく私事をふられたのでたじろいだ。姫野は「しまった」とか「ごめん先走った」とかで焦燥にかられている。先程からオロオロとしており、どんと構えてスピーチをしていたときとはギャップがあった。
「落ち着いて。どうぞ、続けて」と先を促した。
「祖父は、うみうら市の元町出身なんです。海苔作りをしていた家の一人息子でしたが、二十歳のときに家出して。江東区へ移り住んだそうです。私が浦辺高校を受験したのは、祖父の故郷を見てみたかったからなんです」
「はあ、なるほど」と、とりあえず相づちを打っておく。
「祖父には、幼なじみがいたんです。かなり親しい間柄だったみたいなんですけど、町を去る直前になかたがいしたみたいで。そのことをずっと後悔していたそうなんです。ここまでは、私が実際に祖父から聞かされていたことです」
「うん。それで?」
「祖父の住んでいた江東区の家屋は、伯父が管理していたんですけど、去年の十一月に引き払うことになったんです。それで母達と家をかたづけていたときに、私は祖父の部屋で手紙を見つけてしまって」
「手紙?」
「祖父は、その旧友の方に手紙を出そうとしていたんです。でも封は閉じたまま、切手が貼られていなかった。多分、迷っていたんだと思います。私は、その手紙を母に黙って持ち出した。どうしても、祖父の代わりに手紙を相手の方に届けたくて。宛名に住所と大塚旭様、とありました」
「ちょっとストップ」
「はい」
「ごめん。整理させてほしんだけど」
「はい」
「つまり、姫野の……あ、えっと姫野さんの」
「姫野でいい」
「そう。姫野のおじいさんは元町出身で、俺のじいちゃんの友達だったってこと? で、ふたりは昔ケンカして別れて、それについて姫野のおじいさんが、じいちゃんに手紙を送ろうとしてた?」
「うん。それで実は、手紙の存在を知ってすぐに宛先の住所へ行ったの」
「え、うちに?」
「去年の十二月の第一土曜日。個人のお宅だと思ったらお店だったから驚いたんたけど、そのとき、急に怖くなって。結局帰ってしまったの。でもそのあと、学校でその海苔屋の息子が大塚くんだって知って」
なるほど。事情はおおむね把握できた。姫野はずっと俺と接触する機会をうかがっていたというわけか。しかもなにげなく、丁寧語が抜けている。
「それで岡本くんに相談したら」
陸の名前が飛び出すと俺はいぶかしんだ。
「英語弁論大会について取材を受けたときに、大塚くんは部活もバイトもやってないって教えてくれたの。いつ声をかけようか悩んでいたら、昨日たまたま会って……」
「でこういう流れになりました。ってことか。陸のやつ、なんで早く言わないんだよ」
「岡本くんを怒らないで。私が黙っててって、口止めしたの。だから喧嘩しないで!」
憂える必死な上目づかいだった。これで陸をとがめれば俺が悪者のようだ。長嘆息が出てしまった。
「わかった。あいつを責めたりしないから」
「……よかった、ありがとう」
「それより。本題はそっちじゃないだろ。その、姫野のおじいさんのこと」
「名前は、昇っていうの。母親は幼い頃に病死してて、父親とふたりで暮らしてだそうなんだけど。なにか聞いたことある?」
「わるいけど、じいちゃんの昔のことはほとんど聞いたことがないんだ。でも、なかたがいしたまま別れたって、いったいなにがあったんだ?」
それは、と口ごもった姫野は、橋の欄干に手を置いた。
「具体的になにがあったのかはわからない。私も小さかったし。ただ、うみうら、元町の親友、大塚旭って祖父が話したことは断片的にだけどはっきり覚えてるの」
川を見つめていた彼女は、顔をこちらへ向けた。
「このことがずっと頭の片隅にあった。私は、あの手紙をなんとしても届けるべきなんじゃないかって思ったの」
「なんで姫野がそこまでするんだ?」
「共働きの両親が一番忙しい時期に、母方の祖父母が私の面倒をみてくれたの。とりわけ祖父は可愛がってくれた。でも小学生のとき、両親の仕事でアメリカに行くことになって。それきり会えなくなってしまって」
「そうか」
それ以上、特に言えることがない。こういう場合、あたりさわりのない返しをするのが無難である。
「私の両親ってね、二年も前に離婚してるの」
「え?」
「アメリカにいたこととか、親のことで噂されてるのは知ってる」
すると彼女は身をひるがえして、今度は橋の手すりに背中を向けて寄りかかった。
「姫野は母方の旧姓。父は、いまでも私を娘として大事にしてくれる。ふたりのことはどっちも好きだけど、私にはわからないの。父と母がお互いに、物理的にも心理的にも離れたいと思う理由が。たぶん、わかりたくないの」
想像してみた。複雑なんだねとか、難儀してるねとか、自分だったらそういう言葉をかけてもらいたいと思うかどうか。姫野の調子に合わせて同情するというのは、おもねっているようで見苦しいとすら感じる。もともとこういう話は得意ではない。
「ごめんなさい。余計なことだった。忘れて」
彼女は大人だ。俺なんかよりもずっと。
「あの、で、よかったら俺から話しをしてみるけど?」
「出来れば、私から祖父のことを伝えて直接手紙を渡したいと思ってて」
ごもっとも。本人も積もる想いがあるようだし。喜んで協力します、というほど気は進まない。がしかし祖父がらみとなると彼女に対する不信感も心なしかゆるんだ。
「わかった。同級生で会いたがってる人がいるって言ってみる」
「ありがとう」
「けど、ちょっと時間をくれるか。じいちゃん、最近は部屋で横になってることが多くて。家族の目をぬすんで話しかけるのも結構大変というか」
「おじいさん、具合がよくないの?」
「いや、そうじゃないけど。何年か前に胃がんの手術したことあって、店の仕事もやめたんだ」
「そう。迷惑かけてしまうね。でもよかった。本当にありがとう」
姫野がほころんだところを見たとき、この人は、こんなふうに笑うのかと思った。小さな子供に微笑むかのように、にこやかに相好を崩す。率直に言って、想像していた彼女の人となりとはだいぶ異なっている。陸のいう「清楚」というより、「可憐」と言ったほうが個人的にしっくりくる。近くで見ると案外童顔であるし、極めつきはこの整った歯並び。
「姫野って。歯、すげぇ白いんだね」
ぽかんとした表情で、彼女は俺を見ている。
「あっいや、ごめん。なんでもない」
目を逸らしてポケットに手を入れる。言いにくいんだけど、と前置きした。
「連絡先教えてくれるか。またメモとか渡されたら、ちょっと困るっていうか」
「そうだよね。わかった」
たいして知らない女子とアイディーを交換している自分を俯瞰すると、そのやり取りはちぐはぐしていた。俺の動作は非常におぼつかなかった。どういうわけかQRコードを読み取る速度が異常に遅いので、早く、早く、早くしろと心の中で念ずる始末。片や姫野は、ほっとしたように口元がゆるんでいる。あまり過度な期待は寄せないでくれ、とは言えなかった。
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