幻の信号灯

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「それにしても、ねえ。ネタを集めるためにわざわざ東京からこんな片田舎まで。怪談師ってのもなかなか大変なんですねえ」 食堂に他の客がいないのをいいことに、宿屋の主人は男の前に腰をおろした。すすめられるままに茶をすすりながら、男はやや気まずげに視線をおとす。   「いえ、私はプロの怪談師ではなく……アマチュアですから。仕事は別にありますし、怪談集めは趣味も兼ねてるといいますか」   「ご家族は東京に?」   「いえ。妻にはずいぶん前に先立たれまして。子供もおりませんで、再婚なども考えられず……この歳まで独り身です」   「おやそうでしたか。ご兄弟なんかも?」   「兄家族がおりますが、広島住まいで滅多に会うことはありません」   「それはそれで遠出するのも気が楽ですね。ああ、お聞きになりたかったのは、幻の信号灯についてでしたね」   男は頷いた。 ネットで情報を集めて、この民宿付近の信号機にまつわる怪談を知ったのだ。 詳しく聞かせてもらうため、わざわざ車を飛ばしてやってきた。   「場所はそこ、そば屋通りの交差点です。信号機に赤、青、黄……この三色以外の色があらわれる時間帯があるそうで。ちょうどこんな寒い季節、地平線が白みはじめる明け方です。信号機にあり得ない色が点灯したら、何があっても直進してはならないといいます」   「直進するとどうなるのですか」 メモを書く手を止める。   「死後の世界に連れ去られるとも、異界に攫われるともいいます。もっとも攫われるのは人だけであって、車自体は置き去りにされるんだとか」   「空っぽの車だけが残される、と。しかし直進しなければいいと分かっていれば簡単ですね」   「そう思われるでしょうけど、走らざるを得ない状態になるのだそうで」   「はあ。どういうことでしょう」   「そのドライバーが、最もおそれるものが追いかけてくるらしいです」 自分が最もおそれるものとはなんだろう、と男は考える。 死ぬは正直、あまりこわくない。妻も子もいないし、財産だって微々たるもの。自分には失うものが多くなかった。 昔から怖い話が好きで、怪談を集めることを楽しみにしていて、幽霊や呪いの類もさほどおそろしいとは思わない。そのほとんどが眉唾物(まゆつばもの)だと知っていたからだ。 それなら、自分は何に追い立てられるというのだろうか。 試してみたくなった。 いつもなら怪談イベントで配信するネタを、自身で体験してみようとは思わない。 しかし「幻の信号灯」に関しては、試すのに労力を使うわけでもなく、法に触れるわけでもない。 朝、車でとある交差点を通過するだけなのだ。 お手軽だし、何より現場の空気感を知れば怪談話にリアリティが出る。
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