1.料亭にて

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1.料亭にて

  『ピピッ』  手元に置いていたスマホから、スケジュールを報せるアラームが鳴った。  日中はうるさいほどの喧騒だった社内であったが、今ではすっかり静まりかえっている。それもその筈で、時刻は22時を回ったところだった。 「はぁーーーーーー終わったぁ」  誰もいない社内で、津田慧兎(つだ・けいと)は大きく長いため息を吐いた。  慧兎の所属するここ経理部は、決算月後からが多忙となる。  決算とは会社が一年の業績をまとめる月のことで、ほとんどの部署はこの月にかけてが一番の繁忙期となる。  しかしここ経理部はその後の業務が多く、まさに今その最中にあった。  他の女性社員と直属の上司は先に帰らせて、慧兎は予定していた残りの業務をこなしていた。上司に至っては家庭があり、奥様も鬼嫁なんだとか。まぁそれぞれに理由があるのだろう。  思っていたよりも時間がかかってしまっていた。 「今から夕飯食べるのもなぁ…」  ここ最近の疲れが勝り、ここ一週間は食欲が全くといっていいほどに湧いてこなかった。  帰りにコンビニに寄って、つまみと酒だけ買って帰ろうと決める。慧兎は椅子から立ち上がった。 「えっとー、カギカギ…」  連日残業ばかりで、慧兎はこのフロアでは完全に施錠係となっていた。手慣れた手つきでお隣の総務部に設えられた鍵棚から、スペアキーを取り出す。  誰もいないフロア内を一度確認して消灯し、カチャンとロックをかけてエレベーターへと向かった。  決算明けの社内は、どこも経理部と違ってまるで仕事納めのように静まり返っていた。金曜日なら尚更のこと、今頃どこかの部署では打ち上げや二次会といったところか。  そんなことを考えながらエレベーターを待っていると、ポーンと到着を報せる音が鳴った。  エレベーターの扉が開く。誰もいないと踏んで下を向きながらトンと中へと踏み込んだが、予想外にも先客がいた。 「…津田じゃないか。今から帰りか?」  相手は、この時間に出くわすとは思いもしなかった男、専務取締役の菅野蒼太(すがの・そうた)だった。 「あ、はい。菅野専務」 「お前だけ残業なんだな」  菅野は他の社員への嫌味も兼ねてるだろう声音で聞いてくる。  慧兎は苦笑いを浮かべた。 「女性はあまり遅くなると危ないので、先に帰らせました」 「はは、そっか」  菅野にも女性社員を咎める気持ちは全くなかっただろうが、慧兎はそう言い訳せざるをなかった。  この菅野専務。専務といえばちょっと年配のイメージがわいてしまうが、有能で若くして役員に抜擢され、慧兎が入社した頃から人より遥か上をいく存在だった。  歳もたしか、数えるほどしか違わない筈だ。  この菅野とは、慧兎も今までにも何度か話したことがあった。仕事上、直属の上司と席を共にすることがあったからだ。あくまで仕事上での話だが。  だから、慧兎に向ける彼の語尾がどこかフランクに聞こえたのは、少々違和感があった。  エレベーターが一階へと到着する。 「どうぞ」  と促して、菅野を先に行かせようとしたら、当の菅野はエレベーターを降りた所で立ち止まった。思案するような素振りをみせて、振り返る。 「津田は晩飯まだなんだろう?」  上司というよりはどこか頼りになる先輩のような気軽さで、菅野はエレベーターの中で待つ慧兎を夕食へと誘ったのだった。    役員相手に食事の誘いを断ることもできず、でもどこか興味が湧いて慧兎は彼に付いていった。  しかし店の前まで来て、今更ながらに後悔してしまう。居酒屋にでも行くのかと思いきや、自分ではあまりお世話になることのない料亭だった。  店に入ると、カウンターの中からきれいな女将が声をかけてくる。 「あら、菅野さん。今日はお二人で?」  ということは、この店には普段は菅野ひとりで来店することが多いのだろうか。  役員といえば、よく数人分の会食代の申請が経理部までまわってくるが、この店の名前の領収証を慧兎は今まで見たことがなかった。 「奥の座敷へどうぞー」  女将はカウンターからさっと出ると、着物の裾を少しだけ上げてこちらへと案内する。  室内なのに石畳になった通路を通って、奥まった個室へと案内される。窓からは専用の坪庭が窺える和風な造りとなっていた。  菅野は慣れた様子であれこれと注文をしていく。女将が席を外した頃合いをみて、慧兎は尋ねた。 「こちらへはよく来られるんですか?」 「あぁ、話し相手が欲しい時はたまに。さっきのカウンターでひとり酒をね」  そして、あの女将は美人でありながら話し上手、聞き上手なのだと菅野は話した。 「へぇ…」  ビールと一緒に出された先付けを箸でつつきながら、ついそんな呟きが漏れてしまった。 「じゃあ、お付き合いされてる方とは来られないんですか?」  プライベートなことを聞いてしまった…と後から気づいたが、慧兎はへらっと誤魔化すように笑った。ここのところの疲労で思考回路が鈍っているのかもしれない。  菅野は拍子抜かれたような顔をしていたが、小さくプッと吹き出した。 「お前、はっきりしてるなぁ。そう、今はフリーなんだ」 「そうでしたか。僕と同じですね」  などと、そんな話のやりとりをしているうちに料理がテーブルへと次々と運び込まれる。 「遠慮しないで食えよ。ここの領収証なんてそっちに回さないから」  菅野は経理部の慧兎へと、からかうように冗談を交えつつ食事を促した。 「はは…いただきます…」  ついさっきまでは食べられるだろうかと心配もあったが、ビールと美味しそうな食事を前にしたら、慧兎は食欲をそそられて思いのほか箸を進めていた。  ビールから日本酒へと菅野に付き合って、食事が終わる頃には慧兎は珍しく酔いが回ってしまっていた。 「お前…、酒弱かったのか…」  帰りのタクシーまで菅野に捕まえてもらって、慧兎はぐったりと上司の肩にもたれ掛かっていた。 「すみませ…うぅ。なんか、今日はダメだったみたいで…」 「何がどうダメなんだ…」  ちょっと呆れた声が聞こえて、慧兎は今にもうとうとと目を瞑ってしまいそうになりながらも反省するしかなかった。  いつもはこれくらいで酔うような弱さではない。わりと強いほうだと自負さえしていた。酔いが回ってしまったのは、たぶんここ最近の疲れがたたって胃腸が弱っていたからだろう。そこへいきなり飲み食いすれば、当然の結果かもしれない。 「ごめんなさい…。ちょっと、疲れてて…」  多分、これが最後の会話になると予想しながらも、慧兎はとうとう耐えきれずにグッタリとした様子で目を瞑ってしまった。      
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