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2.見知らぬ部屋
ハッと目が覚めたとたん、慧兎は布団の中で頭を抱えた。
見知らぬ天井、いつもより大きなベッド、そして肌触りの良い布団。自分の部屋とは比べ物にならないほどに整った部屋だが、ホテルにはない生活感があった。
慧兎は身体を起こすと同時に、昨日の記憶が蘇る。
「……あああああぁ…っ! やらかしたぁ…」
自分が上司を差し置いて酔い潰れてしまったことに、慧兎は両手で顔を覆って本気で泣きたくなった。
つまりはここは、菅野の自宅…なのだろう。
時刻は翌朝の午前9時を回っていた。しっかり眠ったせいか昨日よりもだいぶ身体が軽い。けれど頭は、まだグラグラとしている。
「起きたか?」
ガチャリとドアを開けて入ってきたのは予想通りの菅野の姿だった。昨日とは違い、ラフな格好をしていた。
「体調はどうだ? 昨日はだいぶ調子が悪かったみたいだな」
ベッドへと近寄って腰を掛けると、両手から顔を上げた形で固まっている慧兎の額へ自身の手のひらをあてた。
「ひゃっ」
冷たい手にびっくりして変な声が出てしまう。
「まだ少し熱が残ってる」
「えっ?」
慧兎は自身の手を己の額に当ててみるが、自分ではいまいちよく分からなかった。
昨日はタクシーに乗ったところまでは記憶がある。酒で記憶を飛ばしたことなど今まで一度たりともなかったから、自分はあのまま寝落ちしてしまったのだろう。慧兎は更に羞恥心が込み上げてきた。
「また熱が上がってきたんじゃないか?」
心配そうに覗き込んできた菅野の顔は、誰がみてもイケメンだと評価するだろう。そんな顔が近くにあらわれて、慧兎は居た堪れなくなってきた。
「あの、…ごめんなさい! ご迷惑ばかりかけてしまってて…」
ベッドから立ち上がろうとすると、身体がぐらりと揺れる。自覚もないままに倒れ込んだことろを、菅野がすかさずその身体を抱き止めた。
「ハァ…、いいからまだ休んでろって。お前、相当疲れが溜まってたんだろ」
再び菅野にベッドへと寝かされて、慧兎は自分の全体重がベッドに沈み込むのを感じる。
(う…。確かに…しんどい…)
自分の体重がより重く感じられて、慧兎は眉を寄せて菅野を見上げた。ようやく大人しくなった慧兎へと、今度は安堵のため息が漏れる。
「朝飯にお粥を買ってきた。食べるか?」
「…ありがとう…ございます…」
布団の中から目と鼻だけを出した形で、慧兎はお礼を口にした。
菅野は去り際に慧兎の頭を軽く撫でつけて、食べられるように朝食の準備を始めた。
お粥を食べてひと眠りしたら、だいぶ身体が楽になっていた。身体が熱に慣れたせいもあるかもしれないが、慧兎は水を飲もうとベッドから起き上がる。
リビングのドアを開けると、ソファーに座って寛いでいる菅野を見つけた。
「だいぶ顔色が良くなってきたな」
慧兎に気がついた菅野は、ドアの前で立ちすくむ彼へとソファーに座るように促す。
「はい。お陰さまで楽になりました。あの、お水もらってもいいですか?」
寝起きだったからか、少々掠れた声で慧兎が言うと、菅野は立ち上がって慧兎の代わりに棚からコップを出してやる。設えられた浄水器から水を出した。
その場で手渡されて、慧兎は口を付ける。ごくんと飲み込むと、常温に近い水が喉から胃に染みるようにして流れ込んだ。続けて残りをごくごくと飲み干す。
「相当喉が渇いてたんだな」
慧兎の斜め上から、含み笑いとともに菅野が言った。汗もしっかりかいたせいか、熱も完全に下がったようだ。
「替えの服を出してくる。風呂に入ってくるといい」
「えっ、もう大丈夫です! 熱も下がったし、そろそろお暇しないと…っ」
どこまでも気を回す菅野に、慧兎は申し訳ないとばかりに両手をブンブンと振った。
「治りかけが一番危ない。多少、居心地は悪いかもしれないが、休日なんだから休んでいけばいい」
話によると、慧兎の服は既にクリーニング店へと出したようで、それも日曜日に配達予定だという。このまま休みを使って、慧兎の世話をするつもりだったのかもしれない。
呑みに誘った責任でも感じでいるのだろうかと、慧兎は考えを巡らせてみる。
結局のところ、自分の服がないことには帰れそうもない。このままここへ留まることになりそうだった。それに、菅野から借りた服はあまりにも大きくて、この姿で街を歩くのはさすがに憚られる。
(この人はどんだけデカいんだ…! 袖なんてオレの指先まで隠れちゃってるし…)
加えて、借りたスウェットのパンツはウエストもブカブカで、とりあえず紐で調節可能だが裾なんて折り曲げたら三重になってしまっていた。
慧兎はあわせて自身の貧弱な体形にもがっかりする。最近はとくに食事の摂取を怠っていたせいで、腹部もへこみすぎて肋骨も浮き出てしまっていた。
隣に立つ菅野を見れば、服越しでもその差は歴然としていた。
「はぁ、ジムでも行こうかな…」
「治ったらな」
自身と比べてがっかりとしている様子の慧兎が面白いのか、菅野はまた楽しそうにこちらを見ている。
「ほら、先に入ってこい」
慧兎の背中をポンと押して、その大きな手は彼をバスルームへと追い立てた。
浴槽には既に湯がはってあり、慧兎はしっかりと温まってからバスルームを出た。カゴの中には替えのスウェット上下と新しい下着が入れられている。
「ふー、スッキリしたぁ…」
身体はもう本調子を取り戻しているようだった。早く治してここを出よう。菅野だってこれではゆっくり休めないだろう。
そんなことを考えながら、慧兎はお風呂のお礼を言いにリビングを覗く。しかし、そこに菅野の姿は見当たらなかった。
「出かけた?」
やることもなくて再び寝室へと戻ってくると、既にベッドメイクも済まされた後だった。
きれいに敷かれた布団はとても魅力的だったが、また汗で汚してしまっては申し訳ない気もした。
(そういえば、菅野専務は昨日、どこで寝たんだ…?)
今更ながらそんな考えに行き着く。寝られる場所といえば、リビングのソファーくらいだろう。自分が居座れば当然のこと、当の主人はずっとベッドを使えずにいることになる。
でもベッドを代わろうにも、菅野はけっこう強引だから、病人相手に引き下がりはしないだろうと想像がついた。
何て言えば納得してくれるだろうか。
慧兎はひとり悶々として、ベッドの前で立ったり座り込んだりを繰り返していた。
ふと、寝室の入口に気配を感じて振り返ると、いつの間にか帰宅した菅野がドアにもたれて笑いを堪えていた。
「なっ! なんで笑ってんですかっ」
「いや、津田が面白くてつい…」
ここにきて、また醜態を重ねている自分がもう情けなくて仕方なくなる。
慧兎は半ばヤケになって菅野の前まで歩み寄ると、
「菅野専務…! 今日は一緒にベッドを使いましょう…!」
言い切ってから、慧兎はとんでもない提案をしたことに気がついた。
『一緒に使いましょう』は、『一緒に寝ましょう』と同じことである。
(言い方をもっと、考えておくんだった…!)
後悔したって仕方がないが、とりあえず言い訳だけはしてしまう。
「あっいやっ、僕ばかりベッドを使ってるので、菅野…専務さえ良ければ、ですけど…」
しどろもどろと、慧兎は言ってて恥ずかしくなりながらも俯く。
「まぁ…、お前さえ良けりゃ…」
そんな慧兎に驚きを隠せないながらも、菅野は慧兎の提案をあっさりと受け入れたのだった。
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