3.空気が変わるとき

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3.空気が変わるとき

 外出していた菅野が持ち帰ったのは、昼食用の弁当だった。 「粥と幕の内を買ってきた」  ダイニングで食べようと言って、菅野はさっさと寝室を出て行ってしまう。慧兎もその背中へと、まるでこの家のペットのように続いた。 「あ…僕、お茶淹れますね」  袋から弁当と箸を出してテーブルへと並べる菅野を見て、慧兎は慌てて電気ポットに浄水を注いで電源を入れる。少しずつ勝手のわかってきたキッチンで、てきぱきと動きだした。病み上がりとは到底思えない動きだ。  菅野はそんな慧兎を見て苦笑するしかなかった。 (だから会社でも、良いように使われてるんだ)  内心そう思ったが、菅野はまだ口には出さないでおく。一生懸命な慧兎の姿をみたら、水をさすようなことを言う気になどなれなかった。  慧兎とは、彼の直属の上司を介して事業報告を受ける程度の繋がりでしかなかった。けれど、会議の度に上司と一緒についてくる慧兎のことを、菅野は思いのほか気に入っていた。  慧兎は上司をサポートするのが上手かった。加えて控えめ、数々の資格を着々と取得する努力家であり、会議での説明も分かりやすい。  反して彼の上司といえば、内容の半分も理解していない様子で、自分が答えられなくなれば慧兎に振り、そこから彼が代わって説明をするといった様子だ。見ているだけで普段の社内での仕事ぶりが、手に取るようにして伝わってくるようだった。  それに、慧兎は毎日のように遅くまで残業をしていた。最近の経理部は繁忙期で、残業も仕方のない時期ではあったが、どうも彼ひとりが遅くまで業務をこなしているように見える。上司に至っては早々に帰宅してしまうし、おまけに現在の地位に満足してしまい、出世意欲も皆無だ。業務のほとんどを部下である慧兎に任せて、自分は我関せず。これではただの盲判でしかない。  経理部長がそんな有様では、会社の上層部の人間としては危機感を募らさざるをえない状況といえた。  それに、この男には私生活面でも良からぬ一面がある。  だから、菅野が慧兎と偶然にもエレベーターで出くわした時には、チャンスとばかりに彼を食事へと誘った。  しかし、菅野は自分の考えばかりが先行してしまい、残業続きだった慧兎の体調不良にまで気づいてやれなかった。  慧兎は自分で全てを抱え込み過ぎているのだ。 「…お前はもう少し、人に頼ることを覚えるといい」  急に菅野にそう言われて、慧兎は驚いて手元の作業を止める。顔を上げてポカンとしたその表情は、男性ながらもかわいいとさえ感じさせた。  しかし慧兎は、そんな菅野の思いなど知る由もなく、ヘラリと笑う。 「もう十分に頼ってますけどね、菅野専務に」  今度は菅野が目を丸くする番だった。 「…そうだな、その調子だ」  笑った彼の頭をぐいと押し下げて、菅野はどうにも緩みそうになる顔を隠すようにして慧兎から背を向けた。  寝る前に、慧兎はもう一度お風呂を借りた。  さっぱりとポカポカになった身体に、菅野から借りたパジャマを着てベッドへと向かう。  先に入り終わった菅野が広いベッドの右側へと寄り、横になって本を読んでいた。  ここ二日でだいぶ慣れたとはいえ、会社の上司、それも上層部の人間と同じ布団で眠るのは流石に緊張してしまう。  首にかけたハンドタオルの両端をぐっと握りしめながら、慧兎はおずおずとベッドへと近づいた。 「遠慮するなって。ただ寝るだけだろ」 「そ…そうですね!」  慧兎は思い切ってベッドの上へと転がった。  布団の中で足を伸ばしてフゥ、と息をつくと、何やら菅野は堪えている。やっぱり笑っている様子に、慧兎はまた恥ずかしくなった。 「僕ってそんなに可笑しいですか?」  と、慧兎は思い切って聞いてみる。菅野は笑いそうになる口元に手を当てて、なんとか耐えながら話した。 「いや、どちらかといえば楽しいかな。一緒に寝ようなんて提案をしてくるのはお前くらいだ」 「いっ…! 一緒に寝ようだなんて言ってませんよ! 一緒に使いましょうって、言った…んです…」 (…同じことだけど…)  語尾がだんだんと弱くなる。説明に無理があった。  わかってはいたものの、訂正せずにはいられなかった。このままでは恥ずかしすぎて、今夜はとても眠れそうにない。 「じゃあ、お前の言う通り、一緒に使うとしようか」  読んでいた本を閉じて、菅野はごろんと慧兎側へと向いた。  慧兎はそこで気づく。 (もしかしたらこのポジションは、彼女目線…)  菅野のしっかりとした身体が、薄いパジャマ越しにもよくわかった。彼にドキドキする彼女の気持ちがわからなくもないなと、慧兎は内心思う。 「お…おやすみなさい、です」  そんな恥ずかしい思考を打ち消すように、慧兎はさっさと天井を見上げながら目を瞑る。 「あぁ、おやすみ」  言い終わると菅野もまた天井へと向きを変えたようだった。  慧兎は少しだけ、ホッと胸を撫で下ろした。  常夜灯の明かりだけを残した、薄暗い天井を見上げる。  もう寝ただろうかと、隣りを確認したくなったが、それこそ自分は変な人間になってしまいそうでやめておく。ただひたすら目を瞑り続けようとした。  漸くウトウトとし始めた頃、ふと菅野の言った言葉を思い出す。 『お前はもう少し、人に頼ることを覚えたほうがいい』  菅野とはほんの二日ほど一緒にいただけだったが、慧兎は全てを見抜かれた気分になった。 (すごい人だな…)  隣から寝息が聞こえはじめ、慧兎はハッとして隣を見た。吐息が近い。  いつの間にか、彼の身体は慧兎側を向いていた。たぶん、これがきっと彼の定位置なのだろう。  スースーと寝息を立てて眠る菅野は、前髪が垂れているせいかいつもよりずいぶんと幼く見える。でも、緩く結ばれた唇はどこか男の色気があり、慧兎は慌ててそこから目を逸らした。  ずっと天井を向いているのも、どうにも落ち着かない。  慧兎の定位置は左向きだ。そっと寝返りを打って、菅野と向き合った。 (うん、やっぱり、こっちが落ち着く…)  再びまどろみかけて目を閉じる。菅野の寝息を子守唄のように聴き入りながら、慧兎はようやく深い眠りへと落ちていった。    
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