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4.何もない一日
先に目覚めたのは菅野だった。
隣に枕はあるものの、慧兎の姿が見当たらない。
身体を起こしかけて、菅野は動作をピタリと止めた。布団の中に何か…と思い、その布団をそっと持ち上げる。そこには菅野の胸元へと丸まっている慧兎がいた。
菅野は、女性にも感じたことのないトキメキすらおぼえた。さしずめ言うなれば、子犬のような存在とでも喩えるべきか。
身体全体をめいっぱい小さく丸めて、菅野の胸元の空間へと入り込んだその姿は、男の癖にとにかくかわいい。
布団を捲ったことで寒さを感じたのか、慧兎は小さく身震いして、更に菅野の胸元へと擦り寄ってくる。胸元へピタリと寄って温かさに満足したのか、そのまま再び寝息を立て始めた。
胸元へと擦り寄った慧兎の唇が、少しだけ開かれて呼吸の度に微かに動く。
菅野はそんな彼を起こしてしまうのがどこか憚られた。
(まいったな……)
男にこんな感情を持ったのは初めてのことだ。
菅野は自身の手を顔にあてる。
深刻なことに、更に気づいてはいけない感情にも気がついてしまう。正直に反応を返す自身の下半身が恨めしかった。
菅野は丸まった子犬に気づかれないようにと、そっとベッドを抜け出してバスルームへと向かった。
少し寒さを感じて目が覚めた慧兎は、隣で眠っていたはずの男を探すようにして部屋を見渡した。
ぼーっとする頭をなんとか起動させて時計を見ると、もう10時を回っていた。ベッドのマットが良いせいなのかどうかはわからないが、こんなにぐっすりと眠ったのは久しぶりだった。
リビングへと顔を出すと、菅野はiPadでニュースを確認しているようだった。
「おはようございます、菅野専務」
昨日よりはっきりとした声が出るようになっていた。
「あぁ、おはよう…」
画面から顔を上げた菅野は、少々嫌そうに顔を顰めた。
「どうかしましたか?」
心配そうに問いかける慧兎に、菅野は今度はしまったといった顔をして、
「いや…うん、…そうだな…」
珍しくはっきりしない物言いを返す。
(さすがに、休日最後の日まで部下と顔合わせてたら嫌になるよな…?)
そう考えてみて、慧兎は青ざめてしまった。
そのわかりやすいまでの慧兎に、菅野は何か自分が誤解させたこに気がついてあわてて弁明する。
「いや違うんだ、津田。休み中に朝から専務って呼ばれるのも微妙だなって…」
本当はただの上司と社員の呼び方に違和感を感じたなどとは菅野も言えない。しかし、慧兎は、
(…うん、それもそうだよな)
と、納得してしまった。休みまで専務専務と言われれば、誰だって嫌なものだろう。
「じゃあ今日だけは、失礼して『さん』付けで呼ばさせていただきますね」
慧兎の適応力は高いほうだ。『菅野さん、菅野さん…』と目の前で練習さえ始まった。
しかし菅野はどうにもしっくりこなかった。
「どうせなら、名前にしよう」
菅野は思い切ってそう提案する。
「………っえ?!」
「慧兎」
いきなり呼ばれて、慧兎はドキッと心臓を高鳴らせた。
部下を名前呼びしている上司など社内にも居るが、菅野に言われると妙に気恥ずかしさを感じてしまう。
「じゃあ、…蒼太さん…」
(いやこの場合、僕は菅野さんって呼んだ方がいいんじゃあ…)
言ってはいけない言葉だったような気がして慧兎は一瞬固まる。
(でも、菅野専務は名前で呼んで欲しいって話…だったよな?)
しかし菅野は、こっちへおいでと慧兎へと手招きすると、ヨシヨシと頭を撫でてきた。
「さすが飲み込みが早いな、慧兎は」
「…蒼太さん…は、褒めすぎですよ」
ぎこちないながらも名前で呼び合うと、二人は顔を合わせてクスリと笑った。
とくに何をするでもなく、時間が経過していく。
慧兎はソファーで寛いで、テレビをみている。もうすっかり緊張感をなくしていて、まるで友達の家に居る感覚ですらあった。
「慧兎は普段、どんなテレビを見てるんだ?」
隣で寛ぐ菅野は、テレビ画面を見ながらうーんとうなって考える。
「バラエティも好きですし、町散歩的な番組も好きですよ。でもほとんどがアニメ番組で…」
最近では転生モノにハマっていることを慧兎は話した。
「好きなの観てていいぞ。面白いのあったら教えてくれ」
と、契約しているらしい有料サービス画面を開いてリモコンを手渡してきた。
慧兎は自分が好きなアニメを菅野はきっと好まないような気がして、あえてそこから映画のメニューを開く。
「じゃあ、蒼太さんのオススメ映画を教えてくれませんか? ひとのオススメ観るのってけっこう面白いんですよね」
リモコンを片手に、慧兎はニコリと笑った。
菅野は、それは今度教えてやるからと、慧兎に好きな番組を探させた。
(はぐらかされてしまった…)
明日にはもう、会社でしか会うこともなくなる。
そう考えると、慧兎は急に淋しくなった。
毎日残業の繰り返し、会社ではフロアも階も違うから、エレベーターで偶然にでも会わないことには顔を合わすことすらないだろう。
(あ、事業報告の時は会えるな。うちの上司も一緒だけど…)
明日からと言うよりは、クリーニングに出しているスーツが届いたら、もうここに居る理由がなくなる。
そんなことを考えながら選んだアニメを、慧兎は上の空でしばらく眺めていた。
菅野の隣りに座り、とくに話すでもなくテレビ画面を見ているだけで慧兎の心は満たされた気分になる。
しかし、それすらも終わりを告げるようにして、玄関のチャイムがなった。
菅野が玄関先で受け取ったのは、案の定、慧兎のスーツ一式だった。
「じゃあ僕、そろそろ帰りますね」
休日の最後くらいは菅野にもゆっくりしてもらいたい。そう思ったのは本当で、菅野から受け取ったスーツのカバーを外すと、慧兎は帰る準備を始めた。
「車で送ってくよ」
だからゆっくりしていけとスーツを取り上げられる。
「大丈夫ですよ、電車で帰れますから。それに、もう散々お世話になってるのでこれ以上は…」
菅野が取り上げたスーツをもらおうと腕を伸ばしたとき、その腕をギュッと掴まれて慧兎は彼の腕の中へと取り込まれた。
「…そういう所な」
ぽそりと不満げに漏らすと、菅野はあっさりと慧兎を解放する。
「車で送ってく」
と言い、菅野も出掛ける準備をしに部屋を離れた。
残された慧兎は、掴まれた腕と身体に残った感覚に、プルプルと肩を震わせる。顔はみるみる紅潮していった。
(なっ、なんだ…? これ…??)
遅れてバクバクと動き出す心臓は、まるで自分の心臓が壊れてしまったかのようだった。驚きながらも、その胸をぐっと押さえる。
ひとり部屋に残された慧兎は、その胸の鼓動を鎮める方法を見つけられずにいた。
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