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5.お礼に
契約しているマンションの前まで送ってもらった慧兎は、帰り際にも丁寧に菅野へとお礼を言った。
「じゃあまた、会社で」
ありきたりな会話を残して、菅野の運転する車は走り去っていった。
慧兎は急激にまた淋しさが込み上げる。
車の中では、抱きしめられたことばかりが脳裏を巡って、胸へと打ち続ける鼓動を必死になって抑えていた。
慧兎もここまで来れば自覚はある。よりによって自分は、菅野に好意を寄せてしまったようだった。
あれだけ仕事ができて顔も良く、高身長で身体つきまでいい男なのだ。惚れない男などいないんじゃないのかと、誰に言うでもなく慧兎は自身へと問いかけた。
(それに…菅野専務だって、自分を頼るようにって意味であんなことを…)
抱きしめられたのはそれを言いたかっただけだろう。
それでも思い出せば、慧兎の心臓はうるさいほどに打ちつける。部屋でじっとしているだけでも、疲れ果ててしまいそうだった。
久しぶりの自宅に帰り、土日に済ませるはずだった部屋の片付けをモタモタとこなしていく。しばらくボーっとバラエティ番組を観たりしたが、内容すら頭に入ってこなくて全く観ている意味がなかった。
しかし、シャワーを済ませて頭がすっきりしたら、ひとつ名案が浮かんだ。
(そうだ! お礼を持っていこう…!)
お礼なら会社で菅野の所に会いに行っても不自然ではないはずだ。
「お礼、お礼…、うーん…」
かれこれ三十分は考えたが、慧兎は何も良いものが思い浮かばなかった。食べ物は何が好きなのか、甘いものは大丈夫か、好きな色は何色か、ブランドなら何を好むのか…。
(そういえば、好きな映画すら聞けないままだった)
枕を抱きしめながら、慧兎はベッドの上で仰向けに転がる。残業で平日は会えないし、土日に尋ねるのも気が引ける。そもそも、菅野のプライベートな連絡先など知らなかった。
なんだか悲しくなってきて、慧兎は目尻に涙を浮かべた。
どう考えても今回のようなことはもう起こりそうもない。それだけは確信が持てて、諦めるようにして枕へと顔を埋めた。
週も半ばになり、会議で使う報告書もだいたい仕上がってきていた。
「津田くーん、ちょっと来てー」
そう、ちょっと間の抜けた呼び方をしたのは、慧兎の直属の上司である坂本だった。
「はい、坂本部長。なんでしょうか?」
自分の椅子から一歩も動くことなく手招きをする坂本は、慧兎が横にきてようやく口を開いた。
「決算書のほう、どんな感じ?」
(どんな感じって…)
どう答えれば正解だろう? とまず先に疑問が湧いてしまう。
この上司を前にすると、慧兎は怒りよりも諦めが先にきてしまう。多分、それだけ上司であるこの男に自分は期待していないのだろう。
「進捗具合は七割程度…です。どうかされたんですか?」
坂本が仕事のことを気にするからには、何か理由があるはずだ。
「そうなんだよ! 上層部がねぇ、決算の経過報告を聞きたいって。まだ数字も出ていないのにねー」
上層部という言葉に、慧兎の心臓が跳ねあがった。
「え…上層部って…?」
「そうそう、あの菅野専務が今回の決算を気にかけてるらしくてね。そんなに早く結果が知りたいのかねぇ」
そんなの報告会の時でいいのに…と愚痴をこぼしながら、坂本は面倒臭そうにそう言った。
慧兎は久しぶりにこの男へと少しだけ腹が立った。菅野のことを悪く言われたからだったが、それでも顔に出すことなく、菅野との打ち合わせの日程を聞き出すと自分のデスクへと戻ってきた。
胸の辺りがムカムカとしていたにも拘らず、慧兎の心は晴れ渡ってくる。
(やったぁ、菅野専務に…会える……!)
仕事上でもいい。慧兎は彼に会えることに舞い上がってしまいそうだった。
地に足をつけるべく、休憩室でコーヒーを飲み干した。慧兎は残りの業務へとやる気を漲らせる。
(できるだけ丁寧に、ちゃんとした結果を報告したい)
さぁ頑張ってやろう、と取り掛かっていたら、今度は坂本が慧兎へとわざわざ近づいてきた。
「ところで津田君。私、今日は早く帰らないとならなくて…」
いつもの事だったが、慧兎は坂本の言い訳をとりあえず頷きながらひととおり聞く。
(確か理由は、鬼嫁が…、子供が…、だったっけ?)
慧兎は繰り返し聞かされた言い訳を思い出すが、慧兎にできることはただ一つだった。
「はい、わかりました。早く帰ってあげて下さい」
上辺だけの笑顔を向けて、慧兎はさっさと上司を帰宅させる。ヤレヤレとひとつ仕事が片付いたような気分になるが、やるべき仕事は全く減っていなかった。
慧兎は急いで、目の前の報告書へと取り掛かった。
最終帰宅時間を報せるスマホのアラームが鳴る。
慧兎はハッとしてノートパソコンから顔を上げた。集中しすぎて時間を忘れてしまっていた。
「しまった…、もうこんな時間…」
バタバタと帰りの準備をしていると、このフロアには珍しい時間帯に人が入ってきたようだった。
(誰…?)
確認しようと振り返ると、そこにはあの菅野の姿があった。
「あ…すがのっ専務!」
慧兎はびっくりしたのと合わさって、変に詰まった呼び方をしてしまう。
「ハハ、なんだそれ」
菅野は慧兎に近づくと、やんわりと笑った。
「今から帰りか?」
「はい、そうです」
あとは鞄を手に、ここのフロアのカギを閉めるだけだった。
「夕飯でもどうだ」
菅野は以前と同じようにして慧兎を食事へと誘う。当然のこと、慧兎は一気に舞い上がる。
「はい! あ、いえ、今日は僕がお礼をさせて下さい!」
「お礼?」
先日、三日間もお世話になって何もお礼が出来なかったからと、慧兎はまるで懇願するかのような眼差しで菅野に詰め寄る。
「…わかったよ。慧兎からのお礼は、また改めて考えておくから。今日は、体調のほうは大丈夫なんだろうな?」
菅野はニヤリと不敵に笑んでみせる。慧兎は苦笑いを返して「大丈夫です」と付け加えた。
(お礼…考えとくって…)
まさかリクエストされるとは思っていなかった。慧兎はそれもいいなと考え直して、菅野の後を追うように会社を後にした。
今日は近くの居酒屋へと入った。明日も仕事だから早々に切り上げるつもりなのだろう。
慧兎は、今度こそは菅野の負担にならないようにと慎重にビールへと口を付ける。
「なぁ慧兎。坂本さんから聞いてるか?」
不意に上司の名前がでて、慧兎は昼時の件を思い出した。
「はい聞きました。決算のことを聞きたいそうですね」
「あぁ。あの人、相当焦ってたぞ。まるでどこまで仕上がってるのかも分かってないようだった」
(うーん、まさにその通りなんだけど…)
慧兎は、ハハハ…と笑うしかなかった。
「ちょっと聞いたんだが、坂本さんのお嫁さん、鬼嫁なんだって?」
菅野には似合わない下世話な話題が、彼の口から出る。
「そうみたいですね。坂本部長も、お子さんの面倒をみるのが大変だとか…」
直属の上司のことだからと、とりあえずはフォローは入れておく。
「お子さんね…」
意味深に菅野は呟いた。
「この件はもうわかった。じゃあ、さっきのお礼の話だけど」
菅野は残ったビールをぐいっと喉の奥へと流し込んだ。
「来週の土曜日、空いてるか?」
「来週の…土曜日、ですか? 空いてます…けど」
慧兎は、菅野のためなら無条件で空けると言いたいくらいだった。
それに、その頃には仕事もだいぶ落ち着いているはずだ。確か役員会が前日の金曜日だから、菅野にとっても同じだろう。
「映画。観たいって言ってただろ?」
(あ、それは菅野専務のオススメを観たかったんだけど…)
慧兎にとって、菅野と休日に会えるのならば何であろうがいい。
了承すると、お互いのプライベートな連絡先を交換し合った。もう少しで職場で会えるからと心待ちにしていたのに、まさかの休日まで菅野に会えることになるなんて思いもよらず、
「楽しみです…」
慧兎は無意識のうちに、心の本音を呟いていた。
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