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8.転勤の報
慧兎は相変わらずの残業三昧だったが、菅野と恋人になれたことで、心は元気そのものといえた。
本来、恋人になりたてならば、毎日連絡を取り合ったりするのが当たり前といったところだろうが、慧兎の場合は少々違った。平日に菅野と会える日など、一週間にあるかないかといった状態だった。
それでも休日の土曜日曜は、ほぼ、というか殆どを菅野と過ごしている。金曜日まで死に物狂いで頑張って、休日に菅野の家を訪れての繰り返しといえた。
(平日だって、たまにはゆっくり話をしたいけど、きっと今週も無理だろうなぁ…)
幸せながらも、もう少しばかりと願ってしまう。
また新たな一週間が始まろうとする、そんな月曜日の出勤時のことだった。
慧兎は満員のエレベーターで9階へと上がり、自分のフロアへと足を踏み入れた。このフロアは経理部、総務部、経営企画部で構成させている。いつもは静かなフロアなのに、今日はやけにザワザワと騒がしかった。
「おはようございます。あの…、何かあったんですか?」
自分のデスク下の足元へと鞄を置くと、慧兎はコソッと隣の女性社員へと聞いてみる。
「あ。津田さん、おはようございます。それがね…」
女性社員は周りを気にしつつも、ちょっと面白げな顔で慧兎へと話し始めた。
「津田くーん…!」
相変わらず呑気な口調で、部長の坂本が慧兎を呼んだ。すぐに椅子から立ちあがろうとした慧兎だったが、今日は珍しくも坂本本人がこちらへと歩いてやってきた。
慧兎は思わずギクリと身構える。
「はい、…何でしょう? 坂本部長」
何でもない様子を取り繕いながらも、坂本からの話を聞く姿勢をとる。
坂本はさも大変そうな表情をして話し始めた。
「僕ねぇ、来月付けで単身赴任することになっちゃったんだよ…。それもあと二週間だし、業務の引き継ぎでこれから津田君にも色々と迷惑かけると思うけど…」
「そ、そうなのですね! 坂本部長も大変ですね…。ええとほら、お子さんもいらして大変なのに…」
(あと、鬼嫁と…。でも鬼嫁とは離れられるからその点は良いのかな?)
とは心の声で終わらせて、慧兎はぎこちないながらも坂本へと笑顔を向ける。
慧兎は坂本が急きょ転勤になってしまった理由を、もう既に知っていた。
先ほど、女性社員から聞いたばかりだった。
この坂本は、別のフロアの女性社員と不倫に走ったらしい。それを不倫相手の女性が、上層部へと直接訴えたのが事の発端だという。
異例の時期の転勤通告だったため、探りに探りを入れた社員たちがこの不倫騒動を裏で嗅ぎつけて暴露したのだ。坂本本人も、相当焦っていることだろう。
不倫はよくないが、慧兎はさすがに坂本の置かれた状況が哀れに思えてしまった。
そしてまた珍しくも、上層部の一員である菅野がタイミングよく経理部のフロアに現れたのだった。
「菅野専務…!?」
うわずった声をあげて、顔を引き攣らせたのは坂本だった。
菅野は落ち着いた足取りで、慧兎と坂本の話す隣りへと歩み寄る。
「おはようございます、坂本部長。しばらくお忙しいかと思いますが、引継のほどよろしくお願いしますね」
内情を知っているにもかかわらず、菅野はしれっとした様子で坂本へと言った。
ちょうど菅野の隣で立っていた慧兎は、二人の緊迫した空気を感じて凍りついてしまいそうになる。
続けて菅野は、さも今思い出したかのように付け加えた。
「そうそう、坂本部長の末っ子さんもご立派になられましたね。うちの子会社を希望されたとか…。もう大学四年生ですか。早いものですねぇ」
(え?)
慧兎は耳を疑った。
(坂本部長のお子さんって…)
どういうことかと確かめるように坂本へと目をやると、坂本はしまったという顔をして隣に立つ慧兎へとバツの悪そうな顔をした。
「大学…四年生…?」
以前、子供さんはおいくつくらいですかと本人に尋ねたことがあったが、その時は『いくつになったかなぁ。まだまだ子供でねえ』なんて話していたのに…。
「は…はは…」
坂本からは、乾いた笑い声が聞こえただけだった。
ようはこの男、不倫のために定時退社をして、手のかかるという末息子は既に大学四年生にもなる。これではもう、慧兎だって坂本を救いようがないというものだ。
「津田君も、しばらく大変かと思うけど、他から助っ人を送るから、あと少し頑張って」
菅野は、慧兎の背中をポンと軽く叩いて出て行く。けっこうな爆弾を落としていった。
その背中を見送りながら、慧兎は菅野の本来の性分を垣間見た気がした。
(はぁ…。なるほど…)
菅野と初めて食事をしたあの晩、もう既に彼はこの事実を知っていたのかもしれない。
エレベーターで慧兎と偶然に出会ったあの日、菅野はそれを目の当たりにしたのだ。
社畜と化した部下を自分の良いように残業させて、当の本人は定時退社で不倫三昧ときた。挙げ句に部下は疲労がたたって、菅野の目の前で寝込んでしまった。
坂本はごめんねと何度も繰り返しながらも、今度は鬼嫁を言い訳にして自身の立場を取り繕おうとする。
「はい…。もう…いいですから…」
今更、仕方のないことだ。慧兎はもうその場を離れたくて仕方がなかった。いっそ菅野を追いかけて、このフロアを出て行きたいほどの衝動に駆られる。
「あと少しの間ですが…、…一緒に頑張りましょう」
言い訳を繰り返す坂本へと、慧兎に言えるのはただそれだけしかなかった。
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