565人が本棚に入れています
本棚に追加
9.社畜
菅野が経理部のフロアへと爆弾を落として行った日から、慧兎が再び彼と会えたのは、長い一週間も終わる金曜日の夜のことだった。
仕事が終わるやいなや、慧兎はスーパーへと駆け込んでいた。
買い込んだ食材の袋を手に下げて、菅野の住むマンションへと向かう。
行き違いになるといけないからと合鍵も渡されていたが、今日は菅野の方が先に帰宅しているはずだ。
マンション内の防犯ゲートを潜り抜け、慧兎は玄関ドアのインターホンを鳴らした。
「…勝手に、入ってきていいのに…」
開かれたドアから、そんな呆れた声がかかった。慧兎はまだ慣れなくて…と言い訳をする。
リビングに入ると、もう既に美味しそうな匂いが部屋中にたちこめていた。
「あれ? もう作ったんですか?」
今日は僕が作るって連絡してたのにと言いながら、慧兎はもう勝手知ったるキッチンの冷蔵庫へと買った食材を入れていく。
「今日は早くあがったからね」
先に飯にしようと菅野は言うと、できたばかりのビーフシチューをお皿へと盛り付け始めた。代わりに慧兎は、スプーン・フォークと取り皿をテーブルへと用意して、買ってきたビールも卓上に置いた。
菅野はいつも外食ばかりだが、簡単な料理なら自分で作るらしい。仕事もできてイケメンで、料理もできるとはまた完全無欠の男ではないか。
ただ性格は、会社モードの裏の顔を除いて…にはなるが…。
慧兎は、今週発表された坂本の件について菅野へと話を切り出すと、ようやく本人から真相を聞くことができた。
食事をしながら、今回の事の一部始終を聞き終える。慧兎は食後のお茶を用意しようと立ちあがった。日本茶用のティーバッグを取り出し、電気ポットのお湯を茶器へと注ぎ入れる。カップへと注いだうちのひとつを菅野の前へ置くと、自分の分を持って椅子へと戻った。
女性社員らの情報網はなかなかのもので、彼女らの情報は実に的確だった。侮れないなと慧兎は内心思う。
それにしても、聞けば聞くほどに坂本があまりにも自分勝手で周りへの配慮に欠けた人間だったことが判明して、慧兎は人としても幻滅してしまいそうになる。
「まさか、坂本部長が不倫のために定時退社してたのには、僕もガッカリしましたよ」
今まで自分は、どれだけの業務を不倫中の坂本の代わりにこなしていたのだろう。
「けど、単身赴任と降格が制裁って聞きましたが…」
坂本は結局、社内不倫の制裁として単身赴任、あわせて職務怠慢につき降格及び異動となった。
「はじめ上層部のじぃさん達は、社内不倫については個人的事情だからお咎めなしって方針だったんだけどな。そんな考えは今の時代には合わないし、自分のすべき仕事まで他人に押し付けて、持ち場の状況すら把握できていないような幹部はさすがに放置できんだろ」
少し感情的にきこえるのは、私情も挟んでいるからだろう。
この凡その被害を被ったのは慧兎である。でも坂本の力量不足によって、これだけ厳しい制裁を受けることになったのには、少なからず自分にも原因があるような気がしてしまう。
なぜか罪悪感が湧き上がった。
(あ…僕が、至らなかったせいだ…)
「…僕のせい、で……」
そう呟いただけなのに、菅野は慧兎の心情まで察知する。
菅野はそんな慧兎へと嗜めるように言った。
「慧兎。人の情に流されるな」
「でも、僕がちゃんとできてたら坂本部長も…。会社だって、こんなに大事には…」
不倫していた坂本が一番悪いのは分かっていたが、慧兎には力の及ばなかった自分にも非があるような気がしてならなかった。これでは坂本自身だって家庭も崩壊しかねないだろう。
泣きそうになる慧兎へと、菅野は今度はやんわりと伝えた。
「なぁ慧兎。お前が今、ここで判断を間違えたら、それがお前の未来になるんだ。本当に、自分のせいだと思うか?」
残業を受け入れて、このまま上司に言われた通りにもっとちゃんと仕事をこなしていたら、その先に望む未来はあったのだろうか。
「坂本は、自分で自分の未来を作ったんだ。お前のせいじゃない。そもそも…」
と言いかけて、菅野はやめる。
慧兎の考え方はもう既に、会社に飼い慣らされた社畜と同然だった。自分が悪いから、自分が頑張れていないからだと、自分を否定して全てを抱え込んでしまう。このままでは慧兎はいずれ、この会社に潰されてしまうだろう。
菅野には、この愛しい恋人の末路が目に浮かんでいた。だからこそ、今回ばかりは菅野も動かずにはいられなかった。
「お前は十分に頑張っている。だから慧兎、お前は自信を持て」
不安定な慧兎の心を少しでも安心させたくて、菅野は自信を失って震えるその背中を抱きしめる。脆すぎるまでの慧兎の自己肯定感を、少しでも高めてやりたかった。
しかし今の慧兎には、何よりも休息が必要なのかもしれない。
菅野は、先に慧兎へとバスルームを使うよう促した。トボトボと歩いていく彼の背中を見つめながら、風呂に入って少しは気持ちが落ち着けばいいと願う。
慧兎を守りたいならば、もっとまともな部署に異動させれば簡単なことだったが、彼はそれを望んでいない。あれだけ頑張って経理関係の資格も取得しており、今の仕事ぶりはまだ若いながらも有能といえる。
それならばまず、環境対策が必要だと菅野は思案する。どうすれば慧兎が自尊心を取り戻して仕事に向き合っていけるのか。
菅野は再び策略を練り始めた。
実際に坂本が異動してしまうと、事の事態は少し違っていたことが判った。
相変わらず情報通な女性社員たちは、朝からきゃあきゃあと噂話を捲し立てている。
「坂本部長の鬼嫁さん。大学を卒業した息子さんを一人残して、一緒に赴任先へ引っ越したそうよ」
「えー! 不倫してたのにー? そんなの全然鬼嫁じゃないじゃん!」
「でも不倫されても別れないなんて、奥さん、監視するために付いて行ったんじゃない?」
そんな話が聞こえてきて、慧兎は思わず彼女たちの話へと割り入ってしまった。
「単身じゃないって、本当なの?!」
「うん。鬼嫁さんと交流のある子からの情報だから、間違いない筈よ」
確か菅野からは、単身赴任が条件だったと聞いている。
(これが本当なら、ちょっと救われるなぁ)
慧兎はどこかほっと胸を撫で下ろした。
不倫は坂本の自業自得だが、今回のことで家庭が壊れたとなれば慧兎だって後味も悪いものだ。
菅野のマンションへ帰ったら聞こう…と、慧兎はひとり脳内へとメモを書き留める。今日は直接、彼の住まうマンションへと向かう予定だ。
少しでも早く仕事をあがろうと、休憩もそこそこに慧兎は業務へと取り掛かった。
菅野のマンションへと帰宅後。
どうして条件が緩和されたのかを聞いてみれば、
「さぁ? どうだろうな?」
と、俺は知らないとばかりに菅野はうそぶいていた。
会社で一度決まった制裁を覆すには、それなりの手順が必要な筈だ。
坂本のことをあれだけ自業自得だと言っていたのに、菅野はけっきょく慧兎の望む未来へと導いていく。
これでまた、菅野の本性をまた一つ知った気がした。
(やっぱり。この人は優しい)
ただし、この優しさは慧兎限定ではあるのだが。それに慧兎本人が気づくのは、まだまだ先のことかもしれない。
少なくとも菅野は、慧兎に対して甘すぎる程に優しい男といえた。
最初のコメントを投稿しよう!