渇き

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渇き

 ジージー、ジリジリジリジリ……  騒がしい蝉の鳴き声。  アスファルトを焼く太陽光。  目が痛くなるぐらいの真っ青な晴天。  矢沢は自分に降りかかる全てのストレスから逃れるように、冷房がガンガンに効いた車内で静かに目を瞑る。  カーオーディオから流れるラジオは、午後一時を告げるとニュース番組のオープニングを奏で始めた。その爽やかな音にさえ神経がピリピリと刺激され、こめかみが微かに痛んだ。  暑さが一段と厳しくなってきた八月上旬。  世間がお盆休みに入っても警視庁捜査一課に属する矢沢には関係のないことだ。 「先輩、買ってきましたよ」  運転席側のドアの開く音の後、声をかけられた矢沢は外の世界の眩しさに顔を顰めながら運転席に乗り込んでくる男に視線を向けた。 「寝てました?」 「いや、起きてた」  少しぐらい寝たらどうです?、と言いながら男は矢沢にコンビニのビニール袋を渡す。  受け取った袋は想像よりも大きく、袋の中を確認した矢沢はため息をついた。 「おい、田口。なんだこれは」 「頼まれてた十秒チャージと、頼まれてない梅おにぎりとスポドリです」  田口はしれっとした態度で答えると自分の袋を後部座席に置いた。元ラガーマンの田口の袋は矢沢の2倍はありそうだ。 矢沢は袋からゼリー飲料だけ取り出すと残りを田口に突き出す。 「これだけでいい」 「いやいや、そんなんじゃもたないですよ」 「平気だ」 「全然平気じゃないっす。十秒チャージを過信しすぎですよ」  田口は「返品不可です」と言いながら体の前で逞しい腕をクロスさせて拒否を示す。  矢沢はそんな田口の様子を見てため息をつくとコンビニの袋を自分の膝の上に置いた。 「このまま戻るでいいですか?」 「あぁ……」  田口の運転でコンビニの駐車場を出ると庁舎へと戻る道を走る。本来ならこのまま外回りの予定だったが、矢沢が担当している事件捜査に助っ人が来るとかで緊急の会議が入っていた。 「本当に大丈夫なんですか?少しは休憩した方がよくないですか?」  顔色やばいっすよ…と田口は笑うが、矢沢を心配していることが伝わってくる。 「休めないだろ……」 「まぁ、そっすよね……。夏バテですか?」 「たぶんな」  一ヶ月前、本格的な夏の到来を感じさせる猛暑日に、急に矢沢の味覚はなくなった。それに伴い食欲も湧かなくなり、日々の食事はゼリー飲料を胃に流し込むだけになった。  何を食べても味がしない、それどころか食べたいという欲求すらもなくなり、気づけば一ヶ月で体重が随分と減ってしまった。  慢性的な栄養不足のせいか些細なことでイライラすることが増え、頭痛や眩暈が日に日に酷くなっていった。夜に眠れない日が増え、目の下にはドス黒いクマが居座るようになった。  誰の目から見ても体調が悪いことは一目瞭然だが、気遣う声はかけても休みを取るようにとは誰も言わなかった。それもこれも担当している事件が厄介過ぎるのだ。  とはいえ、このままではよくないことは矢沢自身が一番理解している。倒れるのが先か、事件捜査が落ち着くのが先か……。  痛むこめかみをおさえながらぼんやりと考えていると、ラジオから流れるニュースが耳に入る。 『練馬区のマンションの一室で人の体の一部と見られるものが見つかり、警察は死体損壊などの疑いでマンションに住む三十代会社員の男性を逮捕、送検しました』 「さっそくニュースになってますね」  田口は矢沢の返事を待たずに苦笑いしながら言葉を続けた。 「現場に行ったやつの話、聞きました?だいぶやばかったらしくて、ショックで暫く立ち直れないかもって言ってましたよ」  矢沢は田口の話には返事をせず、捜査資料を思い起こす。  凄惨な事件現場の写真。  生前の被害者の写真。  そして加害者の写真と供述内容……。 「まさか人が人を食うなんて、正気じゃないですよ」  近隣の住民から異臭がすると通報を受け駆けつけた警察官が男の部屋に乗り込んだ時、男は血の海の中で恍惚の表情を浮かべながら血肉を啜っていたらしい。  被害者と加害者には事件まで面識がなく、事情聴取で男は「見た時から欲望が湧いて抑えられなかった」と話したらしい。  事件は異常者による犯行かと思われたが、加害者の職場に話を聞きに行くと『勤勉で人当たりもよく、周りからも慕われていた。体調不良で暫く仕事を休んでいたが、まさか事件をおこすなんて想像もできない』と皆が口を揃えて言ったそうだ。  さらにこの事件を単なる猟奇殺人として扱えない理由が他にもあった。 「ここまでやばい事件はまだないにしても、噛みつかれたとか食いちぎられたとか……ほんとなんなんですかね?ゾンビ映画の世界でも始まるんすか?」  矢沢は警視庁を悩ませる全国で多発している事件を思い深いため息をついた。  小競り合いから実際に逮捕者が出たものまで大小の差はあれど、ある共通点が見られる事件が全国で発生していた。その共通点とは加害者の異常ともいえる被害者への執着、とりわけ相手を捕食したいという欲求がすごいのだ。  その異常性と発生数から警察内でも話題になり、これらの事件の関連を調べるかどうかが話し合われていた矢先に今回の事件が起きてしまった。 「今年の夏は彼女に海に連れてけっていわれてたんすけど」  この感じだと無理ですよね……と田口はため息混じりにぼやく。  矢沢は田口の話を適当に聞き流しながらビニール袋のスポーツドリンクを取り出すと、渇きを感じる喉を少し潤す程度にスポーツドリンクを飲み込んだ。相変わらず味はしない。冷たさだけが喉を通り過ぎていく。  最近、喉がよく渇く。飲み物を飲んでも微かに違和感を感じた。これも味覚がないせいなのか。  ただこれじゃない、もっと何か……。  田口が運転する車は十五分ほどで庁舎に着いた。会議は十四時開始を予定しているため、矢沢は一度田口と共に自席に戻った。  隣で弁当をかき込む田口を横目に、矢沢は僅かな時間を使って捜査資料をまとめる。  今日、話を聞いたのは十代の女の子だった。  学校からの帰り道、突然男に襲われた彼女はトラウマから学校へ通えずにいた。彼女の絶望に染まった顔が瞼の裏に焼き付いている。  この事件にどんな真実があるかはわからないが、これ以上被害者が増えないことを矢沢は純粋に願っていた。  会議が始まる十分前に、矢沢は田口を連れ指定さた会議室へ向かった。庁舎の中でも一番広い会議室で、それだけこの事件捜査の規模が大きいことを表していた。  会場についた二人は後方の席に座った。矢沢に気づいた同僚達がパラパラと声をかけてくる。皆一様に矢沢の体調を気遣う言葉をかけるが、誰の顔にも疲労が浮かんでいた。  会議室の前方では準備が着々と進められていた。開始時間になると、上役の人達が続々と入室する。  その時ふと、甘い匂いが鼻を掠め、矢沢の心臓がどきりと跳ねた。  気のせいにも感じられる程の僅かな匂い。誰か甘めの香水でもつけているのかとも思ったが、野郎ばかりの会議室でその匂いは異質だった。  匂いは徐々に強く濃くなっていく。初めて嗅ぐ匂いのはずなのに、自分はずっとこの匂いを求めていたような気がする。  矢沢は無意識で匂いの元を探し始める。そして室内を彷徨う視線が会議室前方の扉に止まった。  ガチャン、と扉が開く音が頭の中で反響する。  事件をメインに担当している捜査員に連れられ一人の見慣れない男がにこやかに会議室に入ってきた。  身長が高く、高級そうなスーツを鮮やかに着こなすその男に、矢沢の全神経が引き寄せられる。 「はじめまして。この度、全国で多発しているこの猟奇的な事件の捜査の加わることになりました、東郷です」  男の声が矢沢の鼓膜をくすぐる。  気づけばむせ返るような甘い匂いに包まれていた。 「アメリカの大学で犯罪心理学を勉強したあとプロファイラーとしてさまざまな事件を担当しました」  凄まじい速さで鼓動を刻む心臓に体が震える。  頭に血が昇り目の前がチカチカする。  それでも男から視線を離せない。 「少しでも多く、捜査に協力できるように尽力します」  不意に鼻の奥がツンと痛む。  呼吸がどんどん浅くなっていく。  喉はカラカラに乾いているのに、唾液が口の中にあふれて止まらない。 「矢沢さん?大丈夫ですか?」  矢沢の様子に違和感を感じた田口が声をかけてくるが、矢沢の耳には一切届かない。  なんの音も聞こえない。ただ男の声だけが矢沢を捉えて離さない。  あぁ……自分が求めていたものはこれだったんだ……。 「これからどうぞ、宜しくお願い致します」 ……ゴクリ
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