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普通の朝。普通の仕事。普通の食事。普通の一日。誰の人生の上でも流れる普通の時間。社会の歯車として生きるありふれた人生。
けれどこの世界の人間はそれぞれ祝福と呼ばれる異能を持ち得る。普通とはかけ離れた異能を。
火を操れたり、植物を操ったり、空を飛べたり……。多くは普通幼い頃に発現する異能を私は持ち得なかった。と成人するまでは思っていた。
自宅への帰り道、かつかつとヒールを鳴らしながら夜道を歩く。自宅近くでいつも通りすがりに挨拶をしてくれる犬の散歩中のご近所さんと挨拶をして、自宅へと帰り着いた。
荷物を乱雑にベッドに放り机に置いてあった煙草と携帯灰皿、ライターを手に取った。ベランダに出て火をつける。目を瞑ってひと吸いすれば、食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。目を開ければ自宅ではなく、木造の一軒家。
キッチンらしき場所に佇む獣人を見て声をかけた。
「シェント〜、久しぶり〜」
「おー久しぶり」
目の前に居るのは狼の獣人であるシェント。獣の顔にピンと立った耳、もふもふとした灰色と白の混じった体毛に尻尾。歳の頃は二十七。私が異能を発現して出会ってから七年となる。
「お前最近来ないから死んだかと思ってた」
「忙しかったんだよ。仕事、立て込んでたから」
「まあ元気そうで何より……相変わらず煙草臭え」
「臭いとか言うなよ。傷つくだろ」
私の異能。それは煙草を吸っている間のみ異世界へと飛ぶことが出来ると言うものだった。成人してから初めて吸った時に異世界に飛ばされ、元の世界に戻ってから調べた結果、能力が判明したのだ。
煙草なんて一本持って精々五分と言うところだ。続けて火をつければ居座ることは可能だがそう長時間も吸っていられない。そんな短い異世界転移を私は何度も繰り返していた。
現実世界からの逃避と言ってもいい。別に悩み事があるわけでもなかったが、物珍しさから異世界の様々な場所に私は煙草を吸いながら訪れる。とりわけシェントとは初めての転移での出会いから長い付き合いになる。何度も何度も、煙草の力を使って度々会いに来ていた。
「おすすめの美味い飯屋、教えてよ」
「煙草ふかしながら食うつもりか?」
「お持ち帰りして食べるつもり」
「お前も難儀だよな。煙草吸ってる間しかこの世界来れないんだから」
シェントには異能について全て話をしている。呆れ返りながら、明日買っておいてやるからまた来るといい。と言ってくれた。
煙草を咥えながらくゆる煙が視界を動く。シェントの家のダイニングテーブルの前に座り込み、揺れる尻尾を眺めながら最近はどうかと聞いてみる。
「ちょっと荒れ気味だな。世界情勢とか疎くはあるが、内戦が起こっている地域があるらしい」
「うちの世界も最近は物騒だ。戦争とか、まさか私が生きているうちに起こるなんて思ってもみなかったし」
「スミの世界も大変だな。身の回りはどうなんだよ」
「普通〜、だって毎日仕事で変わり映えなんてしないしな」
「ふうん。趣味……はここに来ることだろうしな。まあ元気ならいいよ」
シェントは初めて出会った時は当時の私と同い年の二十歳だった。
初めての異世界転移、よく覚えて……は、いなかった。なんでもシェントが言うには私は庭木に頭から突っ込んで逆さまの状態で失神していたそうだ。そうして煙草が消えるかどうかのタイミングで起きて、獣人の顔を見て絶叫し元の世界へと帰ると言う何のために異世界転移したのかと思わせる出来事だった。
しかし、七年も通い続けていれば、短時間でも多少なりシェントについて詳しくはなる。この時間がかけがえのない時間になりつつある私と違い、彼にとってはただの客人でしかないだろう。私なんて存在は。
この世界に居続けるためには煙草を吸い続ける必要がある。正直言って、初めて興味本位で吸った時から煙草は好かない部類のものだ。今になっても。
火が消えそうになった煙草を灰皿に乗せて次の煙草に火を付けた。やはり、あまり好きにはなれない。
「お前が異世界の人間って言っても、……もう少しこっちに滞在出来るような方法があればいいんだがな」
「獣人まみれのこの国で私なんて浮きまくるだろうよ。旅人は旅人であるべきだ」
シェントの住まうこの国は獣人たちが統べる国だ。人間よりも獣人の方が数も多く、人間は一部では差別対象だ。煙草を咥えながら街を歩いたことがあったが、好奇の目に晒されたのは記憶に新しい。
……別に、そうであったならと思う時はあった。七年の付き合いのシェントに惹かれている部分もあった。でも私にとって叶わぬ願いなのだ。彼と共に生きると言うことは。
「シェントお菓子くれ〜」
「人んちなのに寛ぎやがって……マフィンでもいいか」
「そう言うところ好きだぞ」
「……複雑だな」
「照れるくらいしてちょうだいよ」
シェントの顔を見るに苦虫を噛み潰したような表情をしている。獣人の表情にも大分慣れた。
すう、と煙草を吸って煙を吐き出す。人んちで煙草とかマナーもへったくれもないが、煙草が無ければ存在不可能なのだから仕方がないとシェントは目を瞑っていてくれている。
「七年前さ、初めて来た時庭木に突っ込んでたけど、よく助ける気になったね」
「自分ちの庭に人刺さってたら助けるわ普通。行き倒れかと思ったんだからよ」
煙草をふかしながらシェントと話をする。最近は来れていなかったが、シェントも楽しいと思ってくれているのか耳をぴこぴこと動かしながら笑みを浮かべてくれていた。マフィンを差し出されて口にすると甘みが口いっぱいに広がった。
「シェントはいい人いないのかい」
「お前来れなくなるけどいいのかよ」
「それはちょっと困るな」
「だろ」
俺はお前だけで手一杯だよ。との言葉に、少なからず思ってくれているのではと思ったが、こんな関係生産性なんてクソほどにもないだろう。彼を拘束し続ける自分に嫌気が差すと共に、少々の安堵が浮かんだ。
「そうそう、俺、しばらくこの家留守にするから」
「え?」
「俺、旅に出るって決めたんだ」
「この家はどうするの」
「たまに掃除しててくれよ。何年留守にするかはわからないけれど」
「……嫌だよ」
掃除とかめんどい。と返すと、散々飯を作ってやったのに、お前は恩を返すと言うことを知らんのか。と詰められる。そう言われると弱い。
「なんでまた旅に?」
「ちょっと探し物だよ。俺一応学者だしな」
フィールドワークということらしい。ふうん。と煙草をふかしながら聞いていると、西の国にしばらく向かって調査をするとか。
「どのくらい留守にするの」
「長くて数年かな。それまでこの家頼むよ」
「……寂しくなるねえ」
私の異能は誰かの元に直接向かえるものではない。初めはこの家に偶然辿り着いただけで、シェント自身の元に出向けるものではないのだ。留守にするのならば、しばらくは会うことは無くなるだろう。
「手紙書いて……って言っても、この世界の文字読めないしな」
「言葉は通じるのにな。不思議だよなあ」
「ま、たまに家の掃除してやるから、気をつけて行って来なよ。風邪とか引くなよ」
「昔っから体だけは強いもんで、まあ頼むよ」
「いつ立つの」
「明後日かな」
「結構急だな」
煙草が終わろうとしている。次の一本に火をつけようかと思ったが、煙草の箱を開けて結局閉めて今日は終わらせることにした。
「また明日来るよ。最後の晩餐でもしようじゃない」
「そうだな。んじゃ、また明日」
煙草の火を灰皿に押しつけて消すと、そこは夜の冷ややかな空気を纏う自宅のベランダだった。
しばらくはお別れか。彼のいる暖かな家とも。それを思って少しだけ目頭が熱くなって目を伏せた。
シェントが旅立って二年経った。たまに彼の家に訪れては煙草を咥えながら掃除をする。床や棚は綺麗になっても煙草のせいで空気は不味くなるのだった。能力上仕方がないとは言え、家中煙草のにおいが染みついているのではと思うと少々申し訳ない。
読むことは叶わなかったが、手紙はたまに家の外のポストに投函されていた。名前くらいの文字は習ったので読むことができた。それを見て生きているのだと生存確認が出来たから、中身なんて意味もなさないものだろう。
掃除を終えて新しい煙草に火をつけた。くゆる煙を見ながら、ソファでぼうっとする。
「……何してんだか」
この家の主は今どこにいるのか。書斎にはなるべく近づかなかった。見れば地図くらいあるかもとは思ったが煙草を持って入るのは少々憚られる。火事になったら申し訳ないのもあるし、私的なものを見つけても気まずいし。
立ち上る煙は風がないから一本に上に登ってゆく。この家に私のにおいが染み付いて、帰ってきた時思い出してくれるといい。まあ散々臭いと言われていたので、鼻のいい獣人からしたら迷惑な話だろうが。
外のポストに何か投函されていないかと見に行くことにした。この家は街の郊外に立っている。私の存在を知る獣人はそうはいないだろう。散々手紙が送られてくるから、郵便配達員くらいは知っていてもおかしくはなかったが。
玄関の扉を開けて外に出る。まだ日は高く、春のような陽気だったが身にあたる太陽の光は少々暑い。ポストを開けると空だった。まあそんなしょっちゅう送られてくる訳でもない。ポストを閉じて家の中に戻ろうとした時、懐かしい声が聞こえてきた。
「スミ!」
「……シェント」
振り返れば、旅衣装の若干薄汚れたシェントの姿があった。シェントはこちらに向かって走ってくると私を腕の中に閉じ込めた。
「やっと見つけたんだ!」
「うお、おおう、何を」
「お前がこの世界でずっと暮らせる方法!」
その言葉に、シェントを見上げる。シェントの目は涙の幕が張っているのか少し潤んで見えた。尻尾はぶんぶんと元気よく振っている。家に入ろうと言うと私の肩を抱きながらシェントは家の中に入る。荷物を置くと、懐かしいにおいだな。とすんすんと鼻をすましているシェント。
「相変わらず臭い!」
「酷えやつだな。この家の掃除してやってたのに」
「なあ聞いてくれよ。俺やっとお前と一緒に居れる方法見つけたんだ」
「……私と居れる方法、ねえ」
煙草に一本火をつけて時間を伸ばす。
「俺、お前がこの世界にずっと居てほしいと思っていたんだ」
「うん」
「そうして西の国にある伝承を見つけたんだ。ある花を煎じて飲むと、霊ですらこの世に再び生を受けられるって言う花があるって。半信半疑だったけれど、持ち帰ってきたんだ」
「……シェントは、私とずっと居たかったの?」
「ああ、……お前を好いていたから」
シェントは私の手をとって握りしめる。
「本当かどうかもわからない。あの花がこの世界にスミの存在を固着させられるか。けれどどんな可能性にも縋りたかったんだ」
「私のために、二年も探してたんだ……」
「飲んで、くれるか?」
シェントのまっすぐな目に私は胸がぐっと詰まる気がした。私を少なからず思ってくれていたことへの嬉しさと、そう言うことは言ってから旅立てという文句。
私はシェントの手を握り返す。
「飲むよ」
「スミ……」
「私も一緒に居れたらって、ずっと思っていた。でも叶わない願いだって諦めてた。でも、シェントも同じ気持ちで居てくれたこと、すごく嬉しい」
「ああ」
「でも、でも、そう言うことは言ってから旅立て馬鹿!!!」
「あっはは! ごめん!」
シェントの頬の毛を引っ張ると笑いながら痛い痛いと泣き笑いをしている。久しぶりに会ったシェントは変わっていなくて、私はそれに安堵した。
「私、元の世界捨ててもいいよ。シェントが居るなら」
「……積み上げてきたもの、全部無くなっちゃうけれど、本当にいいのか」
「構わないよ。けれど最後に両親にだけは会わせててほしい。そうしたらこの世界にずっと居るから」
「まあ、伝承が本当かどうかは飲んでみなくちゃわからない。失敗だったら、意味もないけどな」
「うん、それでもお別れしてくる」
もう一度抱きしめて。そう告げるとシェントの腕の中に閉じ込められる。手で煙草を持って出来るだけ遠ざける。暖かな懐かしいにおい。彼とずっと居られるのなら、守ってくれるのなら、この世界に留まりたい。彼と共に生きていきたい。ずっとそう思っていたけれど、知らないふりをしていた。
成功するかもわからないけれど、それでも少しでも可能性があるのならそれを信じてみたい。
ふ、と腕の中の感覚が無くなる。帰ってきてしまったのだ。自宅のベランダ、夜空には三日月が浮かんでいる。これが最後の別離になるようにと願った。
「母さん、久しぶり」
「あんたね〜来るなら連絡しなさいよね」
実家を訪ねたのは二日後だった。相変わらず母は趣味の庭いじりに精を出していた。庭で日傘を手に母と話をする。
「来るなら美味しいもん作って待ってたんだから〜滅多に実家寄り付かないんだから」
「ごめんて」
「なんか用? 金は貸さないよ」
「娘のことなんだと思ってんだ」
中入っときな〜とゆるい母の言葉に従って家の中に入る。懐かしい匂いがした。適当に何か飲むか。と冷蔵庫を開けて麦茶を取り出しコップへ注ぐ。しばらくリビングのソファでだらけていると縁側から母が入ってきた。
「お父さん今日はゴルフだよ」
「接待ゴルフも大変だねえ」
「最近腰痛いって言ってたし辞めればいいのにねえ」
母は台所に向かって手を洗ってから菓子盆を持って帰ってきた。これ美味しいから食べな〜と私の目の前に菓子盆を置いた。
「あのさあ」
「何よ」
「私の異能さあ、知ってると思うんだけど」
「何よ。異世界で好きな男でも出来た?」
「まー、当たらずも遠からず」
「別に遠くもないでしょ」
はー、どっこいせ。と私の隣に座った母は菓子盆から菓子を取って食べ始めた。
「私戻ってこれなくなったらどうする」
「……それ聞きたいがために今日来たのね」
うん。と頷く。母はしばらく無言だったが、別に、と話し出した。
「別にどこに居ようがあんたが幸せに生きてくれるならいいよ」
「いいの?」
「正直言えば、あんたが惚れてる男一発くらいぶん殴りたい気持ちではあるよ」
「殴んなよ……」
「人の娘誑かした男の顔を拝みたいねえ。どんなやつなの」
「狼の獣人……」
「人外〜!? あんた昔っから妙なのに引っかかるよね〜」
「なんだと思ってんだよ娘のこと……」
私も菓子盆から菓子をひとつ取る。母はテレビをつけてワイドニュースを流し始めた。
「別にいいよ。あんたはどこに出しても恥ずかしくない娘に育てたし」
「そすか」
「あーやっぱり殴りたいよそいつ」
「なんでそんなに殴りたいんだよ。言葉で殴れ」
「一筆したためてもいい?」
そう言うと母はソファを立ち上がってリビングの棚を開け、封筒と便箋とペンを持ってきた。床に座ると便箋に何か書き出す。覗こうとすると見ないでよ。と隠される。
「何、あんた異世界に永住できる方法見つけたの」
「可能性として、出来るかもしれないってだけなんだけど、今のところは」
「身辺整理はしときな。私片付けとか面倒なの嫌だからね」
「へえい」
「父さんには言っておくから、あの人絶対止めるから後でね」
「……なんかあっさりだよね母さん」
「あんた二十歳の頃から異世界行きまくってるし、そん時出会った奴でしょどうせ。長い付き合いだろうし大丈夫だろうっていう母親の勘だよ」
母親の勘、信用していいらしい。私とシェントの背景を直ぐにぶち当てる勘だ。
「恋で身を滅ぼすって感じでも無さそうだし、まあ嫌になったら煙草吸って愚痴言いに来ればいい」
「そりゃそうか」
「あんたが好きでもない煙草吸う理由なんてそいつしかあり得ないだろうって昔から勘づいてはいたよ」
「母親の勘怖」
「煙草臭いし嫌いとか言ってた割にはずっと吸ってるんだもん。そうとしか思えないでしょ」
はい、書けた。と母は便箋を折って封筒に入れると私に差し出した。
「母親としては成功しないでほしい。けれどあんたが悲しむのだけは良しとは出来ない。……本当にぶん殴りたい気分だけど、これ渡しな」
「あざっす」
「異世界に嫁ぐとか正直言って反対だよ。でも反対したところで聞く娘でもあんたないからね」
「へへ……」
今日夕飯何食べたい? といつも通りの母に戻る。話は終わりだと言うことか。この母を持って私は幸せだっただろう。もしあの世界にずっと残れるようになっても、異能を使って会いに来よう。と私は母に夕飯のリクエストを告げながら考えた。
「で、このドライフラワーを煎じて飲むと、この世界に残れると言う?」
「文献ではそう書かれていた」
翌日、シェントの元を訪れた。いつもながら煙草片手だ。見せられた花は乾燥させられ色味は少しばかり薄くなっていたが、紫色の少々毒々しい花だ。恐らく普通に見たならば綺麗だっただろうが、運搬の理由でドライフラワーにしたのだろう。
完成品の煎じた液体を見ると紫色の色素が出たのか、これ毒じゃないよね? と一応確認する。
「大丈夫だ。俺も少し飲んだが美味かった」
「美味いのかこれ……まあハーブティーとかフルーツティーだと思えばいけるか……」
「荷物あれだけでいいのか?」
この世界に来る際、私キャリーケースに少々の衣服を持ってやって来た。まあ異能があるのでこの世界に居れることになっても戻ることは可能だとは思っていたが、一応保険として持ってきた。
「別に帰れなくなったらで不自由はないとは思うんだけれど、最低限のものを持ってきました」
「そうか」
「あ、これ母さんからの手紙なんだけど、読む?」
「スミの世界の言葉はわからないからな。読んでくれるか」
その言葉に、かさ、と封筒から便箋を取り出す。母の字で書かれていたのは、自分の娘を幸せにすると約束しろ。反故にしたらぶん殴りに世界を超えてゆく。不出来な娘だが頼む。という思考ジェットコースターな内容だった。
……あの時の母は内心大荒れだったらしい。私には澄ました感じだったが。
「結構怖いな、スミのお母さん」
「いや、愉快な人ではあるんだけどね。普段は」
「でもそうだよな。別の世界に行くってわかっているなら、行かないでほしいってのが普通の親だよな」
「まあねえ、私だったら止めるよ。それを思うとあの人、ちゃんと私のことひとりの人間として見てくれてたんだね」
母の懐の広さを思い知らされる。ああいう人になりたいものだなと考えつつ、目の前のテーブルに置かれた茶の入った陶器を手に持った。
「では、失礼しまして」
「おう」
陶器に口をつけてぐ、と飲み込む。爽やかな香りと味で結構美味いなと思いつつ飲み干す。
どうだ? と聞いてくるシェントだったが、体には違和感は……ぐ、と胸が熱くなる気がした。
陶器を置いて胸に手を当てようとした時、手が淡い光に包まれているのに気がついた。ぽわ、と光の粒が体を包み、そうして収まる。試しに煙草を消してみると私は元の世界に戻ることはなかった。
「おー、煙草地獄からの解放か?」
「せ、成功したのか……?」
「そう見てもいいかと」
やったあ! とシェントは私に抱きつく。思い切り押し倒されて私はソファの肘掛けに頭を殴打した。
「痛え!」
「あ、ご、ごめん!」
「何いい歳してはしゃいでんだよ……。あー、いてて」
体を起こすとシェントはぶんぶんと尻尾を振っている。
「これでスミ、この世界にずっと居られるんだな!」
「だねえ」
「……ちゃんと改まって言うよ」
シェントと共に居住いを正して顔を向かい合わせる。
「俺、お前を幸せにするよ。もう離してやれない。ずっとそばにいて欲しい。結婚、してください」
「私のこと、思っていてくれてありがとう。正直理由も言わずに勝手に二年も開けたのは根に持ってる」
「う、ごめん……」
「でも全部私のためだったのは、嬉しい。そこまで思ってくれていたの。私だけじゃあなかったって、考えて、私もずっと一緒に居たいよ。だから結婚しましょう」
「……! うん」
手を握りながら、シェントの瞳を見つめた。灰色の色素の薄い瞳が少しばかり潤んでいた。私の目も、薄く膜が張っているかもしれない。
「ずっと一緒に居よう」
「これから嫌でも一緒だよ」
くすくすと二人して笑う。異能がなければ彼と出会うこともなかった。若気の至りで吸った一本の煙草から始まった異世界転移。運命かどうかはわからないけれども、彼に出会えて、会うたびに愛しさが湧いて……。共にいれた時間は少ないけれど、お互いのことを色々知っている不思議な関係。
シェントの胸に飛び込む。ふわふわの体毛に顔を埋めると彼のにおいがした。煙草のにおいはきっとこれから薄れてゆくだろう。けれどいつだって思い出せる。苦くて暗い焼けたにおい。遠くなっても忘れない。思い出の苦い味。私とシェントを繋いでくれたにおいを、私は忘れないだろう。
消えた煙草が灰皿の上で転がった。世界を繋ぐ煙は、もう遠くに。
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