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◇
鎧塚邸二階の和室。美術家、鎧塚千鶴子が金庫の前で膝をつき、その様子を横に立った中尾がしめやかに見守っている。
「ヒロくん」美術家の口調は泣き声に近かった。「産んであげたかったんだよ。暗かったねえ。せまかったねえ。苦しかったねえ。ヒロくん、ごめんねえ。本当にごめんねえ」
背中を向ける鎧塚の表情は見えないが、もしかしたら本当に泣いているのかもしれない。
「お母さん、いっぱいご飯食べさせてあげたかったんだよ。ヒロくん、ねえ。好きなおもちゃも買ってあげたかったんだよ。お友達もできたら、いっぱい遊ばせてあげたかったんだよ。ねえ、ごめんねえ」
パトカーの中、知世はダッシュボードに乗せた成沢のスマートフォンで、この様子を眺めている。
「さっき、ここへ来る前」運転席の成沢が独り言のように言う。「あの美術家の主治医のもとへ行ってきてな」
警部はそこで言うのをやめ、再び沈黙が戻った。
「あ」知世はふと思い出した。
警部が美術館で買ったあの裸婦像。まさか、二階のあの棚に……
「ヒロくん、いっぱいお小遣いあげるからねえ。向こうで好きなものなんでも買ってねえ」
美術家はそう言うと、懐からビニールを巻かれた五百円硬貨の束を出した。画面からはよく確認できないが、どうやら本物らしい。それを畳の上に立てると、そっと右手を添えた。それから介護士も屈み込むと、美術家の手に両手をあてがった。
二人はその姿勢のまましばらく動かなかった。やがて、美術家の手が硬貨の束から離れたとき、介護士はポケットの中で握っていた金色のコインの束を出し、音もなく本物とすり替えた。
美術家は何も言わず、金色のコインの束を金庫にしまう。
「二課の出番だ」成沢は運転席のドアに手をかけて、言った。
「あの美術家の目は見えないんだ。一年前からな」
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