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『五百円硬貨。日本政府が発行する貨幣。現在流通する中で、世界有数の高額面硬貨。2021年11月1日、三代目に当たる〈五百円バイカラー・クラッド貨〉の発行が開始される。外縁部はニッケル黄銅、中心部は白銅、銅、白銅の三層構造により形作られる。直径26.5mm。量目(はかりめ)7.1g』と、ネット記事を目で追い、仕事をした気になったところで、鑑識からの報告書が早く上がってくるわけではない。  Y中央警察署刑事第二課の巡査、木崎知世(きさきともよ)はデスクチェアに尻を乗せたまま、背骨がどれだけ反るか試すように、大きく伸びをした。  通路向かいの301会議室からは、署長の「貴様ら、それでも刑事か!」という怒号こそ聞こえてこないものの、不機嫌そうな男たちのくぐもった声が途切れ途切れに響いてくる。先ほど階段ですれ違った警察学校時代の同期、下村千介(しもむらせんすけ)が、刑事一課長、成沢優(なりさわすぐる)に連れられながら真っ青な顔をしていた。それと、自然に周囲から伝わる噂とを勘案することで、次の結論はすぐに出て来た。  犯人を取り逃がしたんだ。  今朝方、機動警ら隊が蛇行運転する不審なセダンを発見。マイクで停止を命じたところ、当該車両は速度を上げ、明らかな遁走を開始した。追走中、車番照会の結果、近年SNSで勢力を広めつつある窃盗団「邪(よこしま)」の車両と判明。緊急出動により追跡に加わった刑事一課の捜査車両がSバイパス上で最接近し、さらに、営業開始前のガソリンスタンドへそれを追い詰めることに成功した。  セダンのドライバーは単独で、車も恥もかなぐり捨てると、なおもお決まりの逃走を図った。成沢警部と共に下村巡査は同様に車を降り、容疑者確保のため地面を蹴った。  そのとき。下村の履いていた革靴の片方が脱げてしまった。是正行動が早ければまだ救いだったのだろうが、巡査はその場に屈み込むと、悠長にも靴ひもを結び直した。あと一歩で窃盗犯を見失った上、その鈍重な行動が発覚すると、署長も気分穏やかではいられなくなった、というわけである。  一方で「純金色の五百円硬貨」が県内の交番に届けられ、万一の事件性を排除できないとのことで、鑑識係の元へ送られたのが昨日の午前10時頃。知世は今日出勤して間もなく、刑事二課長からその奇妙なコインの調査を拝命した。
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