復讐の力

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復讐の力

 荒牧梨乃(あらまきりの)は、憔悴しきった心を、毎日アルコールの力でなんとか正気を保って、生きていた。それももう、限界かもしれない。  ――――それは半年前のこと。  小学校一年生になった娘の由香里(ゆかり)が、下校途中でひき逃げにあった。たまたま、いつも一緒に帰っていた近所の友人が別の子と約束をしていて、めずらしく一人で下校していたらしい。  病院に駆けつけた時には、由香里は心肺停止状態だった。梨乃は半狂乱になって、病院で泣き崩れ、その後の記憶も曖昧だ。どうやって葬式をしたのかも、思い出せない。  魂を引き裂かれるほどつらいと言うは、まさにこのことだろう。  彼女の夫は警察官だったが、由香里が小さい時に殉職した。それから親子二人で助け合いながら慎ましく暮らしていた。  由香里は小さい頃から動物が大好きで、優しい娘に育ち、母親の梨乃をよく気遣っていた。シングルマザーで、大変な時期もあったが、梨乃は娘を大切に育ててきた。  ひき逃げから三日後、入谷(いりや)議員の秘書が、警察に出頭してきた。  飲酒運転をしていて、怖くなってその場から逃げたという。けれど、入谷議員の秘書は真面目を絵に書いたような人で、平日の夕方から飲酒運転をするようには、見えなかった。  由香里の遺体は、ひき逃げされた場所からしばらくいった、大きな公園の花壇の草むらに投げ捨てられ、放置されていた。司法解剖によると、事故にあってしばらくは、おそらくまだ息があったようだと聞かされた。  飲酒運転と、遺棄、過失運転致死傷罪で、裁判所の下した刑期は重くなったものの、梨乃は違和感を拭えず、彼が本当に犯人なんだろうかと、疑問に思っていた。  秘書はなんの罪もない子供の命を奪ったのを苦にしたのか、間もなくして、遺書もなく不自然な形で自殺をすると、梨乃は入谷議員の周辺を調べ始めた。  親の本能というべきか、納得できない部分があるという、第六感だけで調査をした。  そして、炙り出されたのは酒癖が悪く、反社と黒い噂が絶えない、長男の入谷隆一(りゅういち)だった。  未成年の時から、隆一はかなり悪どいことをしたようで、何度か父親がもみ消しているようだ。そしてあの日、隆一は仲間と酒を飲んで、由香里をひき逃げした車と、同じ車種の車に乗り込んだという、重要な証言を得た。  重要な証言を得た梨乃だったが警察に、門前払いをされてしまう。  梨乃は、酒が抜けないままフラフラと歌舞伎町の夜の街を歩いて、場違いなお洒落でレトロなカフェまでやってきた。 ✤✤✤ 「警察はまったく取り合ってくれない……。ひき逃げをした犯人はあの秘書になっているから、誰も話を聞いてくれないの。だけど入谷隆一は娘を轢いて、公園の花壇に、由香里を放り投げた最低なやつよ。まだ息があったのに、助けもせずに放置して殺した。それから、私が嗅ぎ回っているのに気づいて、脅されたわ。今度は親を殺されたいかって。秘書も口封じに殺されたのかも」  由香里を亡くした梨乃は、まともに仕事にいけなくなってしまった。それでも、生きていくためには、金が必要になる。裁判を起こすにも調査するにも、金が必要になった。  まるで自分を罰するかのように、梨乃は風俗の仕事を始める。  しばらくして隆一が、梨乃が働く店に訪れた時は本当に血の気が引いた。ニヤニヤとしたあの顔を梨乃は忘れられず、今でも思い出すと吐き気がする。  梨乃が働いていたことを知ってきたようで、まともな相手ではない。さんざん侮辱的な言葉で罵られ、密室で助けを呼べず酷い目にあった。  彼女は、歯を食いしばり涙を流して言う。   「本当にあの男は、人間のクズ。この手で殺してやりたいくらい。あんなクズを庇う入谷議員も同じよ。ごめんなさい、お兄さんに言っても、仕方ないよね……。私、なんで話してるんだろう」 「いいえ、構いませんよ」  梨乃はカウンターでコーヒーを煎れるバリスタの青年に謝罪する。店内は薄暗く、他の客の様子も梨乃からはよく見えない。  ここは歌舞伎町と思えないくらい静かで、唯一の音といえば、シャンソンの曲が流れているくらいだ。  わずかな光の中で見えるバリスタの顔は、どこかで見た気がするけれど、疲弊(ひへい)した梨乃には思い当たらなかった。 「ねぇ、梨乃さん」 「なに?」 「あんたが、もし、娘の復讐をしたいのなら俺が手を貸してもいい。本当になにもかも捨てて、娘のために復讐する覚悟があるならね」  マンデリンのコーヒーの良い香りが立ち込める。梨乃はこの青年に、名乗っただろうかと不思議に思った。  薄暗い照明に、エディット・ピアフのバラ色の人生という、古いシャンソン曲が流れ、じっと彼に見つめられた。梨乃は、綺麗な顔立ちの青年に目を奪われ、モヤがかかった記憶が蘇ってくる。  ああ、そうだ。この子は死んだ『高階葵』にそっくりだわ、と心の中で思う。  あの事件は衝撃的だったが、今の梨乃なら彼が抱えていた闇も、理解できる。 「娘の復讐のためならなんでもする。なんだってするわ。由香里を殺して、私を侮辱したあいつに復讐できるなら!」 「それじゃあ、梨乃さん。誰のための復讐なのか。強く願って。あんたの娘が好きだったものを、俺が復讐の力に変えてやるよ」  葵は笑みを浮かべ、梨乃の手をそっと握ると彼女の手を開いた。  花の檻 了  
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