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雨の日
トッカータとフーガ
アジサイ
冷淡、無情、辛抱強い愛
雨が降っている。だんだん雨足が強くなっていく。雨の音にかき消される女の声。雨の音と混じりあい、澄んだ旋律を奏でるフーガ……。
―――― 時子は、雨音が好きだった。規則的に落ちてくる雨の雫がメロディーを奏でるのを聞きながら、4畳半の部屋で黙ってただ座っている。
土砂降りだったら、ベランダから出て、雨に濡れてみるのもいいのだ。適度に自分を痛めつける感じが時子は好きだった。
雨の日は、全てが立止まっている。隣のマンションから出てくる人もいない。全てがしんと静まっている。マンションのフロアからも何も聞こえてこない。雨音だけが聞こえる。
突然、ドアチャイムが鳴り響く。
「はい、どなた?」
「こんにちは! 近所の花屋ですが、お花をお届けにきました!」
ドアチェーンは外さずに、ドアを半開きさせると、20代くらいの女性が、腕に大きな紫陽花の花籠を持って立っていた。
「頼んでませんけど?」
「いえ、あの…お知り合いじゃないんですか? 田野倉幹也さんという方からですが?」
「知らないわ」
「そうですか…どうしましょう? 受け取り拒否されますか?」
「……そうね、ちょっと気味が悪いから持って帰ってくださる?」
「承知しました」
知らない男からの花束を受け取らなかった。慎重すぎるという性格でもない時子だが、どうしても受け取ってほしいなら、また、贈ればいい。受けて立つわよと、興味もなさそうに笑ってその時はすぐに忘れてしまった。
梅雨の季節は、時子は嫌いじゃない。雨音にパーカッションの伴奏を任せて、音楽を聴くもの好きだった。
その日は、バッハのトッカータとフーガをかけていた。雨音をバックにパイプオルガンの重厚な調べが時子を空想の彼方へと誘う。目を閉じて、雲の上に漂う自分を思い浮かべていた。
雨雲に、ぽかっと穴が開き、そこから、強い光が差してくる様子が瞼の裏に描かれていく。
その時…ドアチャイムが鳴った。
「はい」
「お届け物です」
「はい」
ドアを半分開けると、先日の花屋の女性が、一段と大きい花籠を持って立っていた。女性が気の毒になり、受け取ることにした。ドアチェーンを外して、その籠を手にした。
「はい、どうぞ。お気をつけて、籠の底から両手で持ったほうがいいですよ」
「ええ、ありがとう」
花籠には、青い紫陽花がこれでもかとばかりに飾り付けられていた。そういえば、受け取りを拒否した時には、紫の紫陽花が花籠いっぱいに飾られていた。今日のは青?
時子は、花屋に聞いてみた。
「どんな人なんですか?この送り主の男性は?」、
「いえ、お電話で指定してきたので、私どもは、お顔は見ていないんです」
「色も指定しているんですか?」
「ええ、勿論です。花言葉が違いますから」
「紫のは?」
「辛抱強い愛です」
「これは?」
「あなたは美しいが冷淡だ…でしょうか。他にも無情という意味もあります」
「そうですか。電話してきたんですか?」
「ええ」
「どんな声の人です?若い人?」
「いえ、年配の男性でした」
「住所や電話番号は言わなかったんですか?」
「ええ、お名前だけ知らせてくれと。知っているはずだからと、田野倉幹也様が」
「田野倉幹也さん……」
「あの、では、確かにお渡ししました」
「あ、はい、ありがとう」
時子は、唸っていた。知らない、そんな男は知らない。しかも年配だって? まったく心あたりがなかった。
その時、電話が鳴った。
「もしもし、佐山です」
「田野倉です。紫陽花は届きました?」
「ええ、貴方いったい誰なんですか? どうして私に紫陽花を?」
「私を覚えていないのですか?」
「ええ、生憎……」
「やはり、貴女は冷淡な方だな」
「お会いした事ありました?」
「いや、ないが、これから私たちは会うのですよ」
「何を仰っているのかしら?まったく理解が及びませんけど?」
「貴女は私のものだ。私の紫陽花の女だ」
「気味が悪いです!もうやめてください!」
時子は、電話を切った。ストーカーなんだと思った。警察に電話して事情を説明したが、取り合ってもらえなかった。背筋が凍るような思いをしても、警察は何もしてくれない。被害がないとさえいう。知らない男から電話がかかってきたのだ。どこから電話番号を知ったのか分からないが、非合法に入手したのなら、犯罪だ。どうして日本の警察はこうも杓子定規なのだ。
それから、雨が降ると、紫陽花が届いた。花屋に持って帰るように言っても、お願いですから受け取ってほしいと懇願される。男は、2倍の料金を振り込んで、時子に紫陽花を贈っているらしい。
持って帰ることになったら、料金は払わないと強硬に言われ、受け取ってもらえたら、2倍の料金を払うからと言い、実際、そうしているらしい。
今日受け取った花籠には、白い紫陽花が飾り付けられていた。白い紫陽花の花言葉は、ひたむきな愛情というそうだ。
時子は怯えたが、電話は最初の一回だけで、かかってこなくなった。
時子はなんとしても、相手がだれかつきとめなくてはならないと思った。日本の警察が何もしてくれないなら、自分で解決するしかないのだ。
田野倉という苗字にはまったく覚えがなかった。小学校、中学校、高校、そして大学にも、退職したばかりの会社にもそんな人はいなかった。
時子は、無理な連続残業がたたって、体を壊し、会社を退職していた。暫くは、退職手当や、失業保険で暮らせばいいと思い、仕事もしないで、この3か月ほど、家でぶらぶらしているのだ。梅雨が終わったら、再就職活動をしようと思っていた。
雨の日は、家でのんびりしていたが、今日は曇天ながら、雨が降ってはいない。そう思って時子は、少し散歩でもしようと思った。家の前に流れる川の土手を散歩していると、男が犬に引きずられるようにして、歩いていた。その様子が、妙に滑稽だった。笑ってはいけないと思って、口を弾き結び、見ないふりをした。
土手には、いろんな人たちが、散歩をしている。犬を連れた人、ジョギングをする若い男性達、若くない男性も、お腹を揺らしながら走っている。女性同士がお喋りしながら歩いていたり、年配の夫婦も仲睦まじく、手を引きあって歩いていた。
時子は、もう結婚することなどは諦めていた。再来年には40歳だ。今更、結婚しても1人の気楽さに慣れている自分は、男性との暮らしを受け入れられないに違いないと思っていたのだった。
土手を散歩するのは気持ちが良かった。家の前の橋から、ひとつ先の橋のかかっているところまで歩き、引き返してきた。
また、犬に引きずられている男が目に入った。時子を可笑しみが襲う。その男は、歳は、多分、時子とさほど変わらないくらいだろうと思われた。さほど背が高くもなく、太っても痩せてもいない、中肉中背という感じで、特に特徴のない男で、顔をみると、人の良さそうな顔をしてるなという以外は、特段、印象がない、平凡な男だった。なのに、犬が元気すぎるようで、その犬に引きずられて、コントロールを失いそうになりながら歩く姿が可笑しかった。
とうとう、犬がご主人様を顧みずに走りだした。
「こら~待て!」と叫びながら、その男は犬を追いかけていた。
犬が突然、Uターンして、時子をめがけて走ってくる。そして、時子に飛びついてきた。べろべろと時子の顔を舐め始めた犬に狼狽して、時子は、その場にへたり込んでしまった。
「すいません!」と、飼い主の男が大慌てで時子から自分の犬を引き離した。
時子は、やっとのこと、立ち上がって、尻についた土を払って男と向き直った。
「すいません、本当に。此奴、本当に言うことを聞かないバカ犬で」
「いいえ、いいんですよ」
「服が汚れてしまいましたね。洗濯代を出させてください」
「いえ、本当に、気にしないでください」
「待ってください。お名前は? 僕は、田野倉幹也です」
「え!」
田野倉幹也だった。紫陽花の贈り主の。時子は、呆然としてその男を見つめた。
「あの? 僕の顔になにかついてますか?」
「貴方だったのね! ストーカーのように私に紫陽花を送りつけてきたのは!」
「ちょっと待ってください!なんのことですか?覚えがないんですけど」
「私は、佐山時子よ! 花屋に電話して、私に花を届けさせたんでしょう?」
「知りません!」
時子と幹也は暫く、無言で睨み合った。幹也は、身に覚えがないことで、ストーカー呼ばわりされて憤慨していた。時子は時子で、ストーカーを逃がさないとばかりに、幹也の袖をしっかり握っていた。
「いいわ、来なさい!私の家に!証拠を見せるわよ!」
「ああ、いいでしょう、その証拠とやらを見せてもらえば、僕の仕業じゃないと証明しますよ!」
2人は、時子のマンションの部屋にきた。そこには、まだ、枯れずに花籠で可憐に咲いている白やピンクの紫陽花があった。
「見なさいよ!これが証拠よ。それに、ほら! このグリーティングカードにはっきり、田野倉幹也って書いてあるでしょう!」
「僕じゃない! 覚えがないし、貴女のことなんて知らない!ここに住んでいるのも今初めて知ったのに!」
「電話してきたじゃない!」
「電話番号知らない!」
「……」
時子は、ふと、冷静になった。電話の声は、初老の男性の声だった。60歳くらいという印象だったが、この男は40前後で声も若い。別人なのか? 名を騙ったのだろうか?
じっと、幹也を見つめる時子に、痺れを切らした幹也が、言い放った。
「頭のおかしい女の世迷言に構ってられない! 帰る!」
時子は呆然として幹也を見送った。
それからも、幹也と名乗る男からの紫陽花の花は届けられた。時子は土手で待ち伏せしてみた。幹也が通りかかるのを待った。
犬に引きずられて幹也がやってきた。
「田野倉さん!」
「!! まだ、何か用か? 僕じゃないって言ったでしょう?」
「また、届いたんですよ。紫陽花」
「え? 僕じゃない」
「本当に?」
「ええ」
時子は、もう、何がなんだか分からなくなり、その場に倒れた。
目が覚めると、自分の家のベッドに寝ていた。知らない背中があった。振り向くと、それは幹也だった。
「いきなり、倒れるからびっくりしましたよ。担いで連れてきました。大丈夫ですか?」
「すいません、ご迷惑かけました」
幹也は、少し軟化していた。それから、時々、土手で偶然会うと、犬を挟んで2人で散歩するようになった。
時子は再就職した。忙しくなったが、休みの日に、幹也と散歩するのは密かな楽しみになっていた。
1年が過ぎ、幹也があらたまった様子で言った。
「時子さん、食事にいきませんか?」
「だったら、私の家でいかが? 私がつくります」
「ほんとですか? じゃあ、ご馳走になりにいきます」
その日は、雨だった。幹也は、紫陽花の花籠をもってやってきた。
「時子さん、紫陽花が結んだ縁だから、どうぞ」
「あら、ありがとう。結局、去年の今頃届いた紫陽花が誰からだったのかは分からずじまいだったわ」
「縁結びの神の悪戯だったと思いましょう」
「そうね……って、え?」
「結婚しましょう」
「幹也さんと私が?」
「ええ、変な出会いだったけど、好きになりました。嫌ですか?」
「いえ、そうでもないかも」
「ははは、酷い言い方だ。で、結婚してくれますか?」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
雨が降っている。だんだん雨足が強くなっていく。雨の音にかき消される時子の声。雨の音と混じりあい、澄んだ旋律を奏でるフーガ……。幹也の声もかき消されていった。
20年と少しの歳月が過ぎた……。
時子と幹也は還暦を過ぎた熟年夫婦となった。
今でも、土手を犬を連れて散歩している2人の仲睦まじい姿を見かけることができる。
ある日、雨が降っていた。家の電話が鳴った。
「はい、田野倉です」
「時子さん?」
「ええ、そうですけど……」
「僕が誰だかわかりますか?」
「……幹也さん?」
「ええ、僕です」
「待って……貴方は、40歳の幹也さん?」
「そうです。時子さん、僕と結婚して幸せですか?今」
「ええ、とても幸せです」
「そうですか、じゃあ、自信もって、今日、39歳の貴女にプロポーズします」
「幹也さん……」
電話が切れた。後ろで、白髪の幹也が笑っていた。
「貴方、どういうことなのかしら?」
「時子、ごめんね、20年前のこと、僕が紫陽花を贈っていたんだよ」
「え? 貴方が?」
「ああ、信じられないかもしれないけど、聞いてくれるかい?」
「ええ、話して」
幹也と時子の出会いは、あの土手で、犬が時子に飛びついたあの日だった。洗濯代を渡すからという幹也を軽くあしらって帰ってしまった。時子は、あまりにも印象の薄かった幹也のことをすっかり忘れてしまい、その後、2人は接点がなかった。
しかし、お互いに土手の近くに住み続けていたのだ。ずっと独身だった幹也は、ある日、時子を見かけた。気になってつけていくと彼女も独りだとわかった。
あの日の出会いが、もっと印象的だったら、2人は結婚していたかもしれないと思った幹也は、不思議な電話と噂されていた街にひとつだけ残った公衆電話から、過去に電話したのだった。
幹也も半信半疑だったが、近所の子供たちがその噂をしていたのを聞いて、試してみたのだ。公衆電話に入り、電話を掛けたい年の年号の数をプッシュボタンで押す。幹也は、2001と押してみた。そうすると、『2001年に繋がりました。次に、かけたい番号にかけてください』と案内が流れた。
今では、立派な花屋として有名になっている当時は始めたばかりの花屋に電話した。そして、紫陽花を注文したのだ。
まずは、紫の紫陽花を贈ってみたが、田野倉幹也という名前を時子はまるで覚えていなかった。次に青の紫陽花を贈り、冷淡な人だと詰ってみた。
そして、もうすぐあの土手で出会うという頃に、彼女本人にも電話して、私のものだ。紫陽花の女だと言って、自分を印象付けたのだ。
未来は変わった。幹也は、本当に時子を手に入れた。若い幹也が電話してきたのは、不思議な公衆電話から幹也が過去の幹也に電報を打って知らせたからだった。
幹也は、最初は、戸惑ったようだったが、公衆電話から、2021年に電話して、時子に幸せかどうか聞いてみたのだった。
「時子、信じられないか?あれは僕の声だったろ、確かに」
「ええ、あれは、貴方の声よ、今の60歳になった貴方の声を、私は確かに聞いたんだわ」
「あの土手で出会った日、君に仄かな思いを抱いたんだけど、相手にされなくて、悲しかったよ」
「ごめんなさい。でも、貴方が仕組んだ出会いは、貴方の狙い通りになったわね。ものすごく印象的だったわ」
「ああ、君を手に入れたい一心だった」
「どうして紫陽花だったの?
「季節の花だったからというのもあるけど、紫陽花は、移り気とか浮気とかって思われているだろ?でも、一方で、家族団らんという花言葉もある。僕は、独身をとおして、実際は、淋しかった。君も孤独そうに見えたから、一緒に団らんをもてたらいいなと思ったんだよ」
「あなた」
「時子、あらためて、結婚してくれてありがとう」
「こちらこそ」
雨が降っていた。どんどん強くなる雨足に、時子の声がかき消されていた。
幹也がかけたトッカータとフーガが優しく夫婦の声をかき消していった。
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