1.母

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1.母

 サクヤは雨が嫌いではない。何故なら、雨が降る日は母親が家にいてくれるから。新宿の片隅にある、今にも崩れそうな古いアパートの一室で、サクヤはいつでも腹を空かせていた。いつ食べたかも忘れたカップ麺の空き容器に、蛾がポトリと落ちた。腐ったスープに沈み、もがいているのを、サクヤは無表情に見つめていた。  母は、この辺りの町辻に夜な夜な立って男の袖を引く娼婦だ。時には警察に捕まって留置されて帰ってこなかった夜もあった。 「サクヤ、実はな、私はロマノフ王家の末裔だ、お前の美しさはその気高い血によるものだ。だが、これはおまえとパパだけの秘密だ、絶対にだ。私の名は外で口にしてはならない。今度の仕事はでかい、こんなゴミ溜めからは、今度こそおさらばだ。故国に帰れば、王族としての誇りを取り戻すことができる」  父親はロシア人で、このあたりのヤクザを相手に銃の密売や薬の横流しをするケチな売人で、いつも誰かに狙われて追い回されているような、どうしようもないクズだった。 「何馬鹿なこと言ってんのさ。売人のクズが王様の血筋だなんて、馬鹿らしくて秘密どころか誰も信じないよ。そんな暇あるなら金作ってきな! 」  いつも父は、自分の血筋を自慢するために反らした背中を母に蹴り飛ばされるようにして仕事に出て行った。 「サクヤ、支度しな」  亜麻色の巻き毛にブルーの瞳……7歳になった今も、男の子に見えた試しがなく、母もそれを良いことにサクヤに女の子用のワンピースを着せた。そういうのを好む金持ちから、金をせしめる為なのだというが、母の風体が下品すぎていかにも怪しく、サクヤを買おうなどという物好きは現れた試しがない。  雨が上がった。 「じゃ、商売に行くよ」  母親に手を引かれ、サクヤは今日もワンピースを着て外に出た。  
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