4.堕天使

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4.堕天使

 『SAGA』という薄汚れたバーが、新宿ゴールデン街の区画から少し外れたところにあった。雑居ビルの地下にあり、酒を飲みにくる客はまず来ない。来るのは、ここにいる『堕天使』に殺しの依頼をしにくる客だけだ。  サクヤは12歳になっていた。ロシア人の血を半分持つ彼は、見た目は中学生のようにスラリと手足が長く、亜麻色の髪とブルーの瞳は相変わらず蠱惑的で、美貌に磨きがかかっていた。  『堕天使』それがサクヤの別名である。  あの雨の日に滑り台の下に逃げ込んできた殺し屋はジェームズといった。ヤクザ相手に殺しの腕を売っていたが、突然の雨に手元を狂わせ、逆に腕を一本取られて廃業の憂き目にあった。  生きるために、あの日出会った7歳のサクヤに、ジェームズは殺しの技術を叩き込んだ。殺しで稼げるようになるまでは、倒錯した趣味を持つ金持ちにサクヤの体を差し出して金を稼ぎ、1つのパンを二人で分け合った。 「パークホテルの202だ」  ジェームズは傷だらけのカウンターにベレッタM84チーターを置いた。バッグに入れるには少し大きめだが、癖がなく、初心者にも扱いやすい。85モデルなどは日本でも麻薬取締官などが護身用に携帯しているほどだ。 「ベッドに誘って、蕩けさせたところを至近距離で撃て。相手は空手の有段者だそうだ、一発で仕留めろ」  ピンクのフリルだらけのワンピースに身を包んだサクヤは、無表情のままベレッタをビーズのバッグにしまった。  驚くほど、仕事は簡単に済んだ。  ホテルの指定された部屋に行くと、男は涎を垂らさんばかりにサクヤを出迎え、有無を言わさずベッドに押し倒した。この太った変態ヤクザが……と三回毒づくまでには、枕越しにその額にダブルタップで銃弾を撃ち込んでいた。  飛び散った脳漿の中から薬莢を拾い上げてバッグにしまい、鏡台で返り血がついていないことを丹念に確かめた。ワンピースを脱ぎ去ると、下はTシャツとジーパンで、年頃の少年らしい姿になる。目に黒いカラーコンタクトを嵌めてブルーの瞳を隠せば、あのワンピース姿の頭の悪そうな少女と同一人物とは思えない程に印象が変わった。ビーズのバッグの中から黒の斜めがけのポーターバッグを取り出してベレッタとビーズバックとワンピースをしまい、サクヤは驚くほど冷静に部屋を出た。  男の見張りと思しきチンピラがエレベーターの前をウロついている。だが、サクヤが先ほどの少女とは気づかぬようであった。素知らぬ顔で通り過ぎ、サクヤは非常階段を駆け下りてロビーを横切り、堂々とホテルを出た。  ホテルからバーへの帰り道、あの公園に至る道を通った。もう夜の9時を過ぎている。あの日のように、娼婦たちが立ち始めていた。  季節外れの雷。雨が降り出しそうな独特の水の臭いがする。  雨は、サクヤの髪から消しきれぬ硝煙反応を洗い流してくれるだろうか。  雨よ降れ……そう念じて夜空を見上げた時、本当に雨が降り出した。  あの大バカ野郎の父親も、確かこんな突然の雨の日に大きな仕事があると言っていた。雨は痕跡を消してくれるとも。 「殺し、だったんだ」  今なら分かる。雨の日に仕事をする理由が。 「サクヤ、か……」  公園の真ん中で夜空に顔を向けて雨を浴びるサクヤに、滑り台の陰から声が届いた。浮浪者のように汚れきった男が、そこにいた。 「あんた……」  雨の日にいなくなったあの男が、そこにいた。 「瞳を隠していても、その横顔ですぐにわかった。美しくなったな」  迎えにくる……今でも夢の中で聞こえてくるあの声に違いなかった。 「パパと行こう。パパと、故国で誇り高く生きるのだ」  雨は痕跡を消してくれる。もっと、もっと降れ、雨よ、降れ。 「ジリムスキー・ロマノフ……今やっと思い出したよ、あんたの本名」 「こんなところでその名を口にするな……私の名は、この街では秘密なのだ」 「ロマノフ王朝が聞いて呆れるね。薄汚いドブネズミじゃん」  ロマノフがグッと歯を食いしばる音がした。本気でそんな名前に縋っていたというのか。誰かが適当につけたような、そんな偽物の名前に。 「パパもママも、俺にはいない。だって俺、『堕天使』だから」 「やはりな……今日のターゲット、本当は私が殺す筈だった。これまで何度も、『堕天使』に仕事を掠め取られた」  穴だらけのジャケットの内ポケットから、父親が22口径を取り出した。サクヤは両腕をだらりと垂らしたまま、横目で父親を見た。    
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