深海に溺れている

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深海に溺れている

 息が出来ない。  ずっと、人とはどこか違うのだと気づいていた。  無表情で怖い子供だと、陰で親に言われていたことも知っている。 だから、どこか欠落した感情は、笑顔を作ることで誤魔化していた。  けれどたったそれだけのことで世界が百八十度変わった。親も周りの人間も、皆口を揃えて優しくなった。遠巻きに見ていた彼らはやがて名取のことを好きだと言った。男も女も、ほんの少し微笑んで優しくするだけで変わっていく。  それだけで。  たったそれだけで。    初めて見たとき、彼を女の子だと思った。  すらりとした細身の体。色素の薄い肌。髪は陽に当たると、まるで溶けてしまったかのように甘い蜂蜜色になる。  その横顔から目が離せなかった。 「宮田、宮田──冬」  入学式が終わった教室で、教師が彼のことをそう呼んで初めて名前を知った。  …ふゆ?  冬?  季節の?  変わった名前だ。男にしては。 「なー冬ー! サツキちゃんてさあ、いつ帰ってくんの?」  斜め後ろから声がする。誰かが彼のことをそう呼んでいた。  随分と親しいな、と思う。きっと中学からの友人か何かなのだろう。 「さあ、いつかなあ」 「今度聞いといてよ、俺サツキちゃんにまた教えて欲しいからさ」 「分かった」  頬杖をついたまま、聞くとはなしに聞いていた。開いた窓から吹きこむ風が机の上のノートをぱらぱらと捲る。  サツキ。  姉か妹? 同級生が教えて欲しいと言うくらいだから、それは姉なのだろうか。  ちらりと肩越しに振り返る。席に座っている彼は、傍に立つ友人を見上げていた。笑い合うふたり、隣の机に腰かけた友人が背を丸めて彼の顔の傍で何事か言い、くすくすと彼は笑った。 「ははっ」 「な、それでさあ──」  笑う彼の顔を正面から見ているその友人が羨ましいと思った。 「……」  羨ましい?  初めての感情だった。  誰かを羨ましいなどと思ったことはない。  欲しいものは全部ある。なのにどうして…  どうしてこんな気持ちになるのだろう。 「変なの、それ」  手を伸ばせば届きそうなほど近い。  まだ話したことのない彼のその笑顔を自分に向けられたら、どんなにいいだろう。 「あの、名取くん?」  不意に掛けられた声に名取は目を向けた。  クラスメイトの女子がふたり、机の前に立っていた。 「名取くんって開南中? あそこ私の友達がいたんだけど…」  名取は微笑んだ。 「へえ、そうなんだ? なんて名前?」 「えーとね…」  名前もろくに覚えていない彼女たちの友人になど興味なんてひとつもないが、名取はそう尋ねた。それは話をするきっかけに過ぎない。嬉しそうに喋る彼女たちの相手をしながらも、耳は彼の声を追っていた。  彼は──宮田冬は友人に誘われて席を立ち、楽しそうに話しながら教室を出て行く。彼がそばを通った瞬間、名取は心臓が激しく痛むのを感じた。  どうして。  どうしてだろう。  こんなに他人を意識したことはない。  その答えを、知りたいと思った。  話しかけるタイミングがなかなか掴めず、入学から一ケ月ほどが経った、放課後。 「あ…」  帰ろうと昇降口で靴を取り出したとき、教室に忘れ物をしたことに気がついた。仕方がないと踵を返し、教室に戻った。  中に入ろうとして、名取は息を止めた。 「──」  誰もいない教室の中に、彼がいた。  宮田冬だ。  開け放した窓に下がるカーテンが大きく風で膨らんでいる。  色褪せたその薄い生地の向こうに彼のシルエットが浮かんでいる。  彼はそれに手を伸ばしていた。 「と…、ととっ…」  風で広がるそれを抑えつけたいのか、手で払おうとしているのか…  窓を閉めればいいのに、と思ったが教室は思うよりも蒸し暑かった。彼の机の上にはノートが広げてあり、教室で勉強でもしているかのようだった。  放課後に、教室で? 「もー…」  手を伸ばす彼の後姿に、思わず近づいていた。 「届く?」  伸ばした彼の指先よりも上のほうを掴んだ。  言ってから、少し嫌な言い方だったような気がしていつものように笑って訂正した。 「あ、ごめん」  彼が振り向いた。驚いたように目を見開いている。  やっと、彼の顔を真正面から見れた。  彼の目が僕を見ている。  まっすぐに。  心臓がどくどくと胸の中で高鳴った。内側から飛び出してきそうだと思ったとき、彼がふっと笑った。 「いや別に。ほんとのことだし」  僕に笑っている。  じっと見返したかったが、なぜか落ち着かなくて名取は掴んだカーテンを一纏めにした。 「…名取、だっけ?」  ぴくりと指先が跳ねそうになる。  名前を呼ばれた。  名前を憶えてくれている。 「背いくつあるの?」 「179」  うわ、と彼は声を上げた。 「もう180じゃんそれ」  見上げる彼の視線を感じながら、名取は手早くカーテンをまとめ、窓枠の端にぶら下がっている古びたカーテンの紐でそれをきつく結んだ。結んでから、それが少しいびつな形をしていることに気づく。 「上過ぎた?」  見られて緊張でもしていたのだろうか、手のひらに汗が滲んでいた。  いいんじゃない? と彼は言った。 「そう? でも閉めるとき困らない?」  少しの間を置いて彼が首を傾げた。 「…その時はまた名取がやれば?」  その言葉に息が詰まりそうになった。  この感情は一体何なのだろう。  彼の何気ない一言がこんなに嬉しいなんて。  嬉しい。 「そうだね、宮田」  ようやく彼の名を呼ぶことが出来た。  背が高いっていいよな、と言って、名取の背中をぽんと叩く。  彼の手が触れたそこから、熱が波紋が広がるようにして広がっていく。  それから話をするようになった。  最初は三人で話していたけれど、それがふたりになるのにそう時間はかからなかった。 「前から思ってたけど、なんで家でやらないんだよ?」  彼はよく放課後の教室に残って勉強していた。少しでも一緒にいたくて名取は出来る限りそれに付き合っていた。その日もそうだった。  ああ、と彼はシャーペンをかちかちと鳴らした。 「母親がちょっと面倒だから」 「面倒?」 「そう」  席替えをしたばかりで、彼は窓際に座っていた。  午後の初夏の日差しが差し込み、光に透けるように彼の体の輪郭が白く光っている。 「だから、あんまり家にいたくないだけ」 「…そう」  その先を知りたいと思った。  もっと仲良くなれば教えてくれるだろうか。  もっと… 「宮田、あのさ」 「ん?」 「今度、委員会の選出があるけど」  クラスの中から何人か年間行事を取り仕切る役員を選ばなければいけない。面倒な慣習だと思っていたが、これは使えそうだ。 「よかったら僕と一緒にやらない?」 「…え?」  実はもう名取はそれを打診されていた。断るつもりでいたのだが──そんな面倒でしかないものを誰が引き受ける?──彼とならやってもいいと思った。今日のように放課後まで一緒にいられる。わざわざ理由を捻りださずとも。 彼が帰りたくないというのなら、尚更… 「家に帰るのが嫌なら」  彼の目が名取を見て、それから窓の外を見た。  いいよ、と言って彼が小さく頷いた。 「よかった」  それは心からの気持ちだった。  よかった。  これでもっと一緒にいられる。 「そんなのやりたがるなんて、名取って変わってるな」 「そうかな」 「そうだよ。おまえ何でも出来るのに」  確かに名取は何でも出来た。そつなくこなすことが出来、要領も良かったから誰もが褒めるのだ。  だが、何が出来ても意味がない。  特にやりたいことなどなく、褒められても気持ちが揺らがない。感情はいつも欠落したまま、戻ってくることがなく、無感動だった。  でも彼といるときは違う。  彼といるときだけは…  凍り付いた水面がゆっくりと溶けだしていくような感覚。  話をするだけで、彼の目がこちらを向くだけで、いつもそんな感覚に陥っていた。  そして望み通り、名取は彼とクラスの役員になることが出来た。委員会はほぼ毎日のようにある。口実を考えることなく彼と一緒にいられることが嬉しくて──  嬉しくて。 「帰り、いいところ見つけたんだけど行かない?」 「いいけど、どこ?」 「ミヤが好きそうなところだよ」  親しさは深くなり、呼び方も変わった。  彼は名取を名前で呼んでくれる。名取も彼をミヤと呼んだ。  他の人間とは違う呼び方で他を牽制した。  誰もいらない。  誰も自分と彼の間に入って来れないように。  いつまでもずっと、こんな時間が続くのだと思っていた。  一年はあっという間に過ぎ、二年に進級した。  クラスは別れてしまったが、引き続きミヤと一緒に役員をすることになった。去年の経験者ということで二人して学年委員会の副と書記に選ばれたのは、幸運だった。  今では親友と呼べるような仲になり、互いの家を行き来するまでになった。行き来と言ってももっぱら名取の家のほうが多く、ミヤの家に行くことはあまりなく──それも名取がそれとなく行きたいと強く匂わせたときだけだった。 「ああ、冬。おかえり」  二度目に言ったとき、大きな男が家の中にいた。誰だと思っていると、ミヤが五月くん、と呼んだ。  サツキ? 「ただいま、帰ってたんだ」 「今さっき着いた。週末までいるから」  うん、と弾んだ声でミヤが頷く。こんにちはと会釈をし、部屋に入って尋ねた。 「誰?」 「え、ああ、兄貴だよ」 「へえ…」  ああ、そうか。  どこかで聞いたことがあると思っていた名取は思い出した。そうだ、入学して間もない頃、ミヤとその友達が話していたっけ… 「五月くんって呼んでるんだ」 「あー…、うん。ちっちゃいときからの癖、直そうと思ってるんだけど」  直らなくて、とミヤは笑った。  サツキは兄のことだったのか。家族の話を互いにあまりしないから気がつかなかった。てっきり妹か姉だと思い込み、その後忘れてしまったのだった。 「ミヤ、ごめん僕喉乾いて…」 「ああ、なんか持ってくるよ」  そう言うとミヤはさっと部屋を出て行った。階段を下りる足音が遠くなり、微かな人の話し声がした。  名取は部屋の中をぐるりと見渡した。あまり物のない部屋はすっきりとしていて、ベッドと机、床の上に敷かれたラグの上には折り畳みの小さなテーブルくらいしかない。 「……」  名取はドアをちらりと振り返りながらクローゼットを開けた。  かけられている服を手に取り顔を埋めた。  腹の底が灼けるように熱い。  弾んだ声、兄に向ける彼の信頼しきったあの視線。  許せない。  許せない。  たとえ家族であっても。  ミヤが好きだと思う全てのものが厭わしい。  僕が一番のはずだ。  こんなに一緒にいるのだから。 「──」  彼の匂いを吸い込んで息を吐いた。ざわざわと波立つ水面に静まれと祈る。怒りは駄目だ。ミヤに向けるのは笑顔だけだ。怒りは、海の底深くに沈んでしまえ。  ひび割れた氷の隙間から要らないものを落とした。ゆっくりとそれは深く深く、暗い海底に向かって沈んでいった。やがて見えなくなるとミヤの足音が聞こえて来た。 「佑真、悪い麦茶しかなくて──」 「ありがとう」  ドアを開けたミヤを名取は窓のそばで振り返った。 「助かったよ」  彼に見えないようにそっと薄く開いたクローゼットの扉を閉めた。  グラスを受け取るとき、指先が触れ合うようにした。無意識に顔を赤らめた彼に名取はうっすらと口角を上げ、気持ちが満たされるのを感じた。  そうだ。  ミヤは僕のことが好きだ。  自分では気がついていないだけで── 「ミヤ…、ミヤ──」  僕のもの。  ミヤは僕のものだ。  帰宅した誰もいない部屋の中で名取は自慰をした。  目を閉じて彼のクローゼットの中を思い出す。声も視線も触れ合った指先も、全部。  全部。 「──」  生まれて初めて名取の胸の中を掻き乱した人。  固く厚い氷を割り、その下にある無尽蔵の水の存在を知らしめた。  僕のミヤ。  笑顔だけを向け優しくして好きになるように願った。そしてミヤは名取の願った通り、無自覚に意識するようになった。  あと少し。  あとほんの少した。  いつ、僕を好きだと言ってくれるだろう? 「…っ、──」   暗闇の中で欲望を吐き出す。手のひらにべっとりとついたそれはどろりと熱く、彼に対する自分の執着そのもののようだ。  あと少し。  そうしたら、そうしたら──  この手の中から二度と離さないのに。  けれど二年の秋、その女は突然現れた。 「宮田くんのことが好きなの」 「え…、おれ…?」  ほんの少し名取が目を離した隙に。 「よかったら、…私と、付き合ってもらえないかな?」 「ええ、と…」  困ったように返すミヤの声に心臓が冷たいものを押し当てられたみたいになる。  どうしてまだ気がつかないのか。  なぜ、…  分からないのだろう?  だから初めての告白に困惑している彼に言ったのだ。 「だから、一回付き合ってみれば?」  案の定ミヤは酷く驚いた顔をした。まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったように。 「話をすれば気が合うかもしれないよ」  そして自覚して欲しい。  自分が誰のことが好きなのかを。  誰のものなのかを。  気怠そうに机に伏せた彼の髪を撫でた。柔らかくて細くて、ずっと触っていたくなる。 「おまえと遊んだりとかも減るのかなあ…」  ミヤの呟いた言葉に名取は手を止めた。  佑真、と呼ぶ声が無自覚に甘いことに彼は本当に気がついていない。  早く気がつけばいい。  僕を好きなことを。  それから間もなくミヤは彼女と付き合いだした。  すぐに別れるだろうと思った名取の予想に反して、彼らの交際は順調だった。  ミヤは基本的に受け身だが、いざというときは積極的になれるし気を遣える人だ。彼女になった島津遥香にもそれは同じだった。少しばかり気の強い遥香に対して、ミヤは理想的な彼氏だった。 「…え?」  ミヤの言葉に名取は振り向いた。  今、なんて言った? 「いや、…なんでもない」 「何でもなくないよ、何?」  照れたように顔を背けたミヤに嫌な予感がした。 「聞こえなかった。なんて言ったの?」  名取の部屋の中、その日は休日でふたりでDVDを観ようということになっていた。前から観たいと思っていたその映画が中盤に差し掛かったとき、ミヤがぽつりと言ったのだ。  ──キスした  画面の中では男女が絡み合うシーンが続いている。 「…したの? どうだった?」 「どうって──、ていうか…」  聞こえてたんじゃないか、とミヤは眉を顰めた。無駄に与えられた広い部屋、ローテーブルに頬杖をつく彼の唇に目が行った。  キスをした。  相手は決まっている。 「それで、どうするの?」 「どうするって…?」 「その先」  ぎくりとしたようにミヤの首筋が強張った。 「キスしたらその先があるだろ?」 「いや、…そう、だけど」 「出来るの?」  にっこりと笑ってそう言うと、ミヤの顔が真っ赤になった。 「それは、わかんない、けど」 「わからないんだ?」 「したことない、し…、おまえと一緒にするなよ」  わざと顔を近づけると、ミヤは怒ったように名取を押しのけた。名取が経験があることを、言ったことがなくても気づいていたらしい。学校内で告白されている場面にミヤが出くわしたこともある。 「そりゃおまえはモテるだろうけどさ──」  耳まで真っ赤にしたミヤが不貞腐れたようにそっぽを向く。その肩を掴み、名取はぐっとこちらに向けた。 「じゃあ、教えてあげようか?」 「──え…」  そのまま押し倒し、驚きで目を見開いた彼を上から見下ろした。  手のひらで押さえつけた腕は細かった。  頼りないほどに。 「…女の子の扱い方教えようか」 「ちょ、っ、なに、…」 「こうやって──」  ラグの上に散らばる乱れた髪、細い首筋を指先ですうっと撫でると、弾かれたようにミヤが名取の腕を払った。 「や、めろっ、ばかっ…!」  覆いかぶさった名取の体を細い腕が突く、軽い衝撃に名取は胸の内で薄く笑いながら床に尻もちをついた。 「何すんだよっ…!」  起き上がったミヤは顔中真っ赤だった。涙目で上目に睨みつけられてぞくりとした。  ああ、これでいい。 「ごめん」 「っ、ごめんじゃない! ふざけんなよっ」  降参だと両手を肩の高さに上げ手のひらを向けると、ミヤは怒りのやり場がなくなったかのようにそばに置いていた荷物をかき集め出した。 「信じらんねえ、もう帰る」 「もう?」 「帰る…っやりたきゃ女の子呼べよ…!」  ミヤ、と名取はその腕を掴んだ。 「ごめん、僕が悪かったから、機嫌直してよ」  ね、とにっこりと笑いかける。ミヤは気づいていないだろうが、彼は今ぐちゃぐちゃに感情の入り混じった顔をしていた。  怒りと恥ずかしさと、ほんの少し見え隠れしている悲しみ。自分の言ったことにミヤは傷ついている顔をしていた。  これでいい。  これできっと──気がつく。  自分の気持ちに。 「久しぶりに遊ぶの楽しみにしてたんだよ、ひとりで飯食うのも寂しいし、ね?」  ごめんね、と眉を下げて謝ると、ミヤは戸惑ったように瞳を揺らし口を噤んだ。はあ、と深く息を吐いて立ち上がりかけた腰をぺたんと床に下ろした。 「わかったよ…」 「ありがと」  こういった名取の頼みにミヤは弱い。それは名取の家庭の事情を知っているからだ。優しいミヤに名取は自分の親が滅多に家に帰って来ないことを言っていた。両親ともに不倫をしており、それぞれが子供を放置して互いの恋人の所に入り浸っている。それはもうずっと、名取が中学に入った頃から続いていることだ。実質夫婦関係はは破綻していて別居状態であるにもかかわらず離婚をしないのは、子供をどちらが引き取るかで折り合いがつかないから、その一点に尽きた。  父親も母親も自分の息子を心の底で疎ましく思っている。可愛げのない子供だとよく言われたものだ。  愛情などどこにもない。  そこに信じられるものを見いだせない。  彼らのようにはなりたくないと名取は親を蔑んできた。  ひとりでいることにはなんの苦痛もない。  むしろひとりのほうがよかった。  だがこうして寂しさを強調して彼の同情を引くには、寂しい振りをするのは効果的だった。 「夕飯何食べたい?」 「…三司馬屋の定食」 「いいよ。食べに行こう」  まったく観ていなかった映画は、ヒロインが男の下で身をくねらせ絶頂を迎え、愛を囁くところだった。  それからすぐに名取は島津遥香がひとりになる時間を見つけ彼女を牽制した。 「ミヤが好きなのはあんたじゃなくて僕だよ」  え、と遥香は頬を引きつらせた。  名取はにっこりと笑顔を作った。 「優しいから、あんたに付き合ってあげてるんだよ」  ミヤが女を抱くなんてありえない。  あんなふうに、あのときの映画のように──見悶え男の下で果てていた。男の背に両腕を回し、必死に縋りついていた、それがこの女であるはずがない。  名取の中でその女優の顔がミヤの顔になる。  抱いているのは名取自身だ。  ミヤの細い腕が、あの細い指が、自分の背に必死に爪を立て甘い声を上げる様を夢に見る。  ああ、早く。  早く欲しい。  欲しい。  僕のものだ。ミヤは僕のものだ。 「ねえ」  三年に進級し再びクラスは別れた。遥香とミヤの交際はまだ続いていた。自分の部屋で押し倒したあの日から、ミヤの態度は少しずつ少しずつ変わっていった。名取に向けられる視線が、以前よりも熱を帯びたものになり、時折苦しそうにする。言えない言葉を喉に詰まらせているみたいに、泣きそうな顔をする。  早く、早く言えばいいのに。  僕に。  僕を好きだと。 「あんた冬くんになんかした?」 「何かって?」  廊下ですれ違いざま、遥香はそう言ってきた。  振り向くと彼女も振り返り、こちらを睨みつけている。 「心当たりあるでしょ」 「さあ…、何のこと?」  肩を竦めて微笑んで背を向けた。廊下の角を曲がるまで背中に遥香の視線を感じていた。  勘のいい女だな、と名取は思った。  いや、女は皆勘がいいか。  自然と口角が上がる。ミヤと遥香が最近上手くいっていないことは分かっていた。それは名取がそうなるようにしているからだ。 「ミーヤ」  翌日の土曜日は補習授業だった。誰もいなくなった授業の終わり、教室に呼び出し待たせていた彼に、名取はわざと後ろから抱きついた。 「ちょ、ばっ…!」  やめろ、と言ってミヤは名取の腕を振りほどいた。 「おまえ最近、べたべたしすぎ…」 「いいだろ、彼女いなくて寂しいんだからさ」 「……っ」 「上手くいってる?」  机の荷物を纏めながらわざと名取は聞いた。  早く別れればいい。  早くあんな女とは。 「上手くっていうか…」 「ん?」 「おれはそのつもりだけど、…」  苦しそうに顏を歪めてミヤは呟いた。 「ちゃんとしたいけど出来ないんだよ」  すうっと名取の頭の中が冷たくなった。  ちゃんとしたい?  出来ない?  それはどういう意味だ。  僕が好きだと自覚したくせに、まだあの女と付き合うつもりなのか。  酷く歪んだ気持ちが名取の中で膨れ上がっていく。  僕を好きなくせに?  僕のものなのに──  許せない。  凪のようだった水面がざわざわと泡立っていく。 「遥香と何かあった?」  開け放した窓から冷たい風が吹きこんだ。  カーテンが膨らんでは萎む。  ばつが悪そうにミヤは顔を逸らした。 「別に…、何もないけど」 「本当?」 「ほんとだよ。それ言うためにわざわざ呼び出したの?」 「そうじゃないよ」  本当はそうだ。  ミヤを追い込むために呼び出した。去年の暮れから塾に通い始めた彼とは放課後なかなか一緒にいる時間が取れなくなっていたから。でも名取は知っていた。ミヤが塾に通うようになったのは名取と少しでも距離を置くためだと。だから気づかないふりをして塾の終わりに待ち伏せたりした。休みの日には家に誘い、映画を観た。  それなのに。 「じゃあ、おれ…」  そろそろ塾の時間なのだ。  教室を出て行こうとしたミヤに名取は言った。 「──ほかに好きな奴がいるんじゃないかって」 「…え?」  ミヤが振り向いた。 「いるの?」  大きく膨らんだカーテンがふたりの間に揺れる。  沈黙が落ちた。  ミヤは顔を歪め、名取を見ていた。  ああ、そうだ。  早く言って欲しい。  そして。 「おれさ、…」  唇を噛みしめたミヤがゆっくりと言った。 「好きなんだよ。おまえのこと」  ああ、やっとだ。  やっと言った。  やっと──僕を好きだと。  ミヤは目を逸らすまいとじっと名取を見ていた。  合わせた視線にぞくりとする。  やっと手に入れた。  もう僕だけのものだ。  名取はにっこりと笑った。 「それ冗談?」 「──」  ミヤは傷ついた顔をした。  酷く、泣きそうに顔を歪めた。  そして震える唇を誤魔化すように笑った。 「冗談だよ、あたりまえじゃん?」  ああ傷ついている。  僕の手で、僕のたった一言で、こんな言葉ひとつで傷つく彼が愛おしかった。  愛など信じていないのに好きという言葉が頭をよぎる。  これは愛や恋ではない。それ以上の何か。得体の知れない感覚が名取の胸を支配する。  ミヤは僕のもの。  この傷がある限り僕を忘れない。  たとえ離れても、永遠に僕のものだ。  そして八年後、名取は再びミヤの前に姿を現した。 「ゆう、佑真──」  その目を見た瞬間に分かった。  ミヤはまだ自分のことが好きだ。  名取がつけた傷跡はまだ残っていた。  結婚すると告げたとき、彼はまた泣きそうな顔をした。 「結婚式、来てくれるよね?」  肺が空気で満たされて行く。  受け入れずに突き放したあの日からずっと。  好きだと言うことが出来なかった、あの日から──固く閉ざした氷の下で名取は深海の底に溺れていた。  どうしてこんなことになったのか名取は分からなかった。  複雑にねじ曲がった心の中は自分でさえ理解出来なくなっていた。  ひとりが平気だったはずなのに、気がつけば手当たり次第に誰かをそばに置いていた。  その誰もが身代わりだった。  ここから解放してくれるのは彼だけ。  偽物では溶かせない。  彼だけがここから出してくれる。  暗い深海に沈み息も出来ない自分を、救い出してくれると信じていた。
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