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1章:私の彼氏はちょっとだけ心配性。
白石葵依は俗に言う『苦学生』だ。
3年前に最愛の母、遥を病気で亡くし、一人暮らしをしている。
一人暮らしをしながら通う高校へ彼女が進学を決めた理由は『成績次第で学費免除』だからだった。高校はアルバイト禁止だが、葵依の環境を鑑みて特別に許可を出してくれた。葵依はアルバイトをしながら、生活費を稼いで高校へ通っている。
そんな苦労をおくびにも出さす、フワフワした雰囲気と愛らしい笑顔はバイト仲間と客から人気があった。
葵依本人だけがそれを知らないだけだ。
身長は152センチ。小柄で顔が小さくて、手も足も小さくてどこを取っても小さかった。彼女が好き好んで着る服はワンサイス大きなシャツで、袖からちょっとだけ出た小さな手が可愛いのだ。今着ている服だってワンサイズ大きめで、もこもこっとした素材のプルオーバーに、下は着心地が楽なリブパンツを履いていた。
色素が薄く、仔猫のように大きい栗色の目。栗色の前髪は目に被らない高さに真っ直ぐに切り揃えられていて、肩の高さのミディアムストレートの毛先は内側にクルンとカールが付いる。守ってあげたくなるような無垢な葵依は、女子高生というブランドと小柄で童顔というセットも加わって、ある界隈の男達からも絶大的にモテた。
勿論の事、葵依本人だけが知らないだけである。
♦ ♦ ♦
葵依が、高校1年生から2年間勤めたコンビニのバイトを本日高校3年生の5月、ゴールデンウィーク最終日をもって円満退職を果たす。
22時。終業時間になりバックヤードへ行くと、店長の田中から「みんなからだよ」とプレゼントが入った袋をもらった。バイト仲間たち全員からの寄せ書きが入っていて『一緒に働けて楽しかった』『遊びにきてね』『寂しい』などと書いてある。ガラスドームに入ったプリザードフラワーと「受験勉強を頑張って」という意味合いが込められた本革製のペンケースも贈られた。うるっと涙が出てきて、葵依は慌てて手の甲で涙を拭った。
「葵依ちゃん」
『葵依ちゃん』と呼ぶ声がニチャッとした響きが含まれていたのだが、葵依は気付く事なくパイプ椅子に座って葵依を見上げている田中に笑顔で返した。
「実は葵依ちゃんに僕個人から贈り物があるんだよ」
「えっ? 店長からですか?」
バイト仲間からもらったプレゼントに店長も参加しているものだと思っていた葵依は驚いて目を丸くする。
葵依はプレゼントが入った袋を持ち上げると「僕もそのプレゼントに参加しているけど僕個人から別にあるんだ」と言われ葵依は手を下ろした。
「でも悪いです。皆さんから沢山貰ったのに店長からも別に貰うなんて」
「いや、葵依ちゃんにはさ……テスト期間中でも出てくれたり連勤させてしまったりさ……申し訳ないと思っていたんだよ。感謝の気持ちを伝えたいんだ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」
「じゃあさ、今週の金曜うちに」
自分が住むアパートへ来てもらおうと金曜日にと提案すると葵依から遮られた。
「学校帰り寄りますね」
「そりゃ困る」
「え?」とキョトンとする。
田中はワザとらしく咳をして誤魔化してからズリ落ちた眼鏡のブリッジを人差し指でクイっと上げた。店に来てもらったら自分の計画が台無しだ。
「みんなには内緒なんだよ。ほら僕個人が葵依ちゃんに上げたとか知られたらさ、嫉妬とかやっかみがあるじゃん?」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
「うーん……わかりました! でも今週の金曜日は従弟と会う約束をしているので再来週はダメですか?」
「再来週の金曜でも大丈夫だよ! あとでLIMEに位置情報送るね」
「はい!」
ペコッと頭を下げたので、男のしてやったりというイヤラシイ笑みを見る事はなかった。家に上がってもらって、あれよあれよと美味しく頂こう。美味しく、というのは葵依を手籠にするという意味である。
『店長マジック』という言葉が存在する。
それは田中の性格が悪くても、不細工でも、頭が禿げていても。新人教育を施すと、不思議な作用が起きるのだ。
新人は先輩バイトよりも仕事が覚束ないのは当然だ。しかし、仕事を捌けない自分が情けなく思ってしまう子が居る。そんな子が教育者からさりげなく仕事をフォローされ、レジに並ぶ客達を次々と捌き、対応している姿を見ると不思議とイケメンに見えてくる。『店長凄い』『頼りになる』『仕事できる』『カッコいい』という気持ちが勝って、恋へ落ちるのだ。
──田中は小太りの禿げだ。悲しきかな客の女子高生から「キモっ」と酷い言葉を投げかけられた事は両手の指じゃなりないくらいだ。
そんな男でも。
新人バイトの女の子と幾度と付き合った事がある。それは自分からアタックしたのではなく、『店長マジック』がかかった女の子から「好きです」と告白されたのだ。『店長マジック』という作用のおかげで仕事をバイト任せにする小太り禿げが『仕事が出来るカッコいい男』と認識されてしまう。この田中は典型的な『仕事が出来ない男』で発注ミスをして品切れを出すわ、その逆で過剰に発注をしてしまうわ、忙しい中バックヤードで携帯ゲームをしているわ、接客業にも関わらず愛想がないわ……散々な男だった。
葵依は、バイト中幾度もバイト先の男の子や客から遊びに誘われたが、「勉強をしなきゃ」と言って断った。これは下手な断り文句ではなく本当の事である。葵依はバイトが休みの日は友達と寄り道せず、学校が終われば真っ直ぐ家へ帰り授業の予習をするのだ。
そんな葵依だから、可愛いけど男への免疫がないから騙すのは簡単だろう──胸が小さいのは残念だが、世間知らずな見た目だから簡単に堕ちるだろう……そう思って田中は葵依の前では仕事が出来るフリをした。
──が。
葵依は堕ちなかった──というよりも、葵依は田中が仕事をしている姿を見て「私もあぁいう風に働けるようにならないと!」という責任感が強過ぎた。そうして生まれたのが田中よりも遥かに仕事が出来る高校生葵依である。
それから田中の今までの愚行を知る主婦層から葵依は守られ、手を出す機会を失ってしまった。
しかし、それは今日まで。何故ならバイトを辞めるからでパートのババァ達の監視の目がなくなるのだ。
「勉強も良いけど息抜きも大事だからね……息抜きしないとさぁ……倒れちゃうからね」
葵依が母親を3年前に病気で亡くして、一人暮らしをしている事を田中は知っている。
バイト中は明るくて笑顔を絶やさない子だが、寂しいに決まっている。そんな子の懐にさえ入るのは簡単だろう。
田中は2年間一緒に働いて葵依の性格を充分把握していた。学業だけではなくバイトに対しても決して手を抜かず、「人が足りなくて困っている」と言えば「それは大変ですね」と休日希望を出しているにも関わらず試験期間中でもシフトに出てくれるような子だった。基本、バイトに出て欲しいと言えば「NO」を言わない子なのだ。体調を悪くしていても他人にキツさを見せずに隠す子でもある。そんな子を押して押しまくれば、絶対にヤれる。
「心配だな」と田中は心配そうに眉間に皺を寄せて葵依の目を見つめた。
どうしても自分の部屋に呼びたい。
この可愛い生き物を美味しく頂きたい。
そんな事を思っているなんぞ夢にも思っていない葵依は
「心配をしてくれてありがとうございます」
真摯な言葉に隠された下心を知る由もなく、葵依はそう礼を述べると、心配そうな男の目を見て彼女は笑って見せた。
葵依は面と向かって心配される事が好きではなかった。彼女の置かれた環境を知ると、同情し憐れんだ目で自分を見てくる。それに加えて優しい言葉を掛けられると、自分が一人なんだと思い知らされて現実が迫ってきて辛くなるのだ。
これ以上心配をされると泣いてしまいそうだから「大丈夫です」と笑顔で答えて話を切り上げる。本当は家に帰ると誰も居ないのは無性に寂しい。その不安が自分の中を渦巻いて、雁字搦めに囚われてしまいそうで怖い。どうすれば、その孤独に勝てるのか──それを言葉にして吐露してしまえば、勢い余って泣くかもしれないから誰にも相談できない。だから、心配をされる事は好きではない……誰も私を心配しないで欲しい。優しく声を掛けないで欲しい。まだ憐れんだ表情で見られる方がマシだった。
葵依は俯きそうになる顔を上げて花が咲くような明るい笑みを浮かべた。俯いてしまったら気が落ちてしまうから。涙が落ちてしまうから。
前を向いて生きる為には俯いたままじゃいけない。泣いてはいけないのだ。
『葵依の笑った顔が一番好きよ』
そう言ってくれたママの為に……天国へいるママが心配しないように。
「私は大丈夫です! 心配してくれてありがとうございます! 私の我儘で人が足りないのに退職させてもらって本当に店長には感謝しています!」
突然大きな声を上げたから、田中はギョッとしてしまう。だから葵依が無理に笑顔を作っているなんぞ気が付かなかった。と言っても簡単に見破られるような偽物っぽさはなくて、愛らしさが前面に溢れている無邪気な笑顔だ。
葵依はギュッと田中の手を両手で包み込んだ。汗でベタついているが葵依は嫌な顔一切せず真剣な眼差しで見つめ。
「そんな店長の優しさに報う為、私は大学へ合格して見せます」
「今から気負ったら……」
「いいえ! 怠けて落ちてしまったらそれこそ顔が立ちません。受験勉強へ専念する為、って理由でバイトを辞めるのに遊んでしまっては私を快く見送ってくれた皆さんへ合わせる顔がありません」
葵依という娘は何事にも一生懸命でバイトでさえ手を抜かなかった。
葵依がバイトを辞めるのは学業に専念する為である。バイトに妥協しなかった娘が、受験の為にバイトを辞めると決めたのなら彼女は目的の為に突き進む。
真剣な眼差しに、さっきまで自分が抱いていた下心が萎んでいきそうだったが田中は己の目的を思い出し首を横に振った。
こんなに可愛くて何事も一生懸命な子を、僕が保護しなければ……。
美味しく頂きたい、と思っていた筈なのだが……いつのまにか『保護』に変わっている。葵依の笑顔に浄化されて変わっただけで恐らくは暫く経てばいつもの田中に戻る筈だ。
葵依は握っていた田中の手を離すと一歩下がって深々と頭を下げた。
「今までお世話になりました。このご恩……大学合格という結果で返させて頂きます!」
バッと上げた表情は決意に満ちていて……そんな表情を見た田中は「応援するよ!」と拍手して激励の言葉を贈った。
そんな田中の様子に葵依はニッと笑って見せる。
良いところで働けたなぁ……!
葵依はそう思って、バックヤードを出る際に一度振り返って田中に頭を下げた。彼女は2年間世話になったコンビニを後にした。
コンビニから出て少し歩いた信号で葵依は立ち止まる。赤信号の間、葵は背中に背負ったリュックから携帯を取り出して画面を見ると不在着信2件とLIMEのメッセージがあった。
『どうして電話をしないんだ?
電話にも出ないし。
何かあったのか?』
というメッセージを読んで葵依は「しまった」と呟く。この不在着信とメッセージの相手は彼女の叔父だ。
葵依は22時にバイトが終わってから、この信号を渡る前に必ず叔父へ電話をするのが日課だった。
叔父──茂は葵依の身元保証人である。
遥は病気で倒れて入院した際に、14年間絶縁していた家族と連絡を取った。遥が連絡したのは8歳上の兄、茂だった。
彼は遥から葵依を託されて、遥亡き後に葵依は茂に引き取られる予定だったが葵依はそれを断った。母親と過ごした場所を離れたくはないし、今まで疎遠だった茂へ甘える事が出来なかったのだ。そんな葵依を茂は説得を続けたものの彼女の意思が変わらないと悟って、彼女の意思を尊重した。ただ「これだけはさせて欲しい」と葵依が住むアパートの家賃を葵依が高校を卒業するまでの3年分と光熱費は払ってくれている。何故家賃3年分しか払わなかったというと、高校を卒業したら大学入学と共に今住んでいるアパートよりセキュリティが厳しい物件へ引っ越す約束をしているからだ。
茂は姪の可愛い葵依が一人暮らしをする事にも不安を感じているのに、それに加えてアルバイトをすると聞いた時は、
「金銭的援助をするからバイトなんてしないでくれ。もし帰り道に男から襲われでもしたら、遥に合わせる顔がない」
茂はアルバイトを止めさせようと必死になる。最終的に頑固な葵依に根負けをして折れたのだが……。
『1.夜道を自転車で走らない』
『2.電話をしながら帰る事』
『3.アルバイトのシフト表を見せる事』
『4.男に送迎をしてもらわない』
という、条件を出した。
一つでも破ったらアルバイトは禁止だ。
家賃以外で金銭的な援助を叔父へ相談しないで済むように、迷惑を掛けずにアルバイトしたいから、これらの条件を飲んだ。自転車通学の葵依は叔父との約束を守る為に、学校からアルバイト先へは行かずに一度自転車をアパートへ置いてから、歩いてバイト先へ向かう。これを2年もの間、葵依は続けた。アルバイトの帰りは必ず叔父と電話をしながら帰路につき、アパートの部屋へ入って玄関の鍵を締めるまで電話は切らない。この条件は一度も破った事はない。今日までは。
『ごめんなさい。今日が最後だからみんなからってプレゼントをもらっていたので帰るのが遅くなりました』
トットットッ。
リズム良く文字を打って送信ボタンを押す。
「いまから、電話をするね……」
声に出しながら続きの文字を打つ。
俯きながら文字を打っている葵依は背後へ忍び寄る影に気付かなかった。
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