1章:私の彼氏はちょっとだけ心配性。

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 ──送信ボタンを押すと同時に、葵依は声を掛けられた。   「おい」    バイト先のコンビニから出て数歩歩いた先で声をかけられて葵依は振り向いた。そこに立っていたのは真っ黒いスーツに身を包んだ男で顔見知りだった。   「あっ。113番さん」    113番というのはコンビニで売られているタバコの番号だ。葵依を呼び止めた男は113番の銘柄をいつも買う常連の男で、葵依は彼がいつも買う銘柄の番号で呼んだ。番号で呼ばれた男は目を見開いた後不機嫌そうに口を曲げた事に葵依は気付かない。ぺこりと頭を下げたからだ。頭を上げると、そこには澄まし顔のイケメンがいた。 「どうされましたか? もしかして、私……違う煙草を渡しちゃいました?」    葵依の問いが聞こえているのかいないのか……113番は無言のまま葵依を見下ろした。  バイトを始めたばっかしの頃、この113番から葵依はレジでクレーマーに絡まれている所を助けてもらっている。  それは2年前に遡る。   「俺を馬鹿にしているのか」  レジに並ぶ客達の対応をしていて、その男の番が来ると目の前でそう声を掛けられた。  そんなつもりはなかった。ただバイトを始めて日が浅い葵依の接客はたどたどしく、それが不快に思わせてしまったのかもしれない──新人でクレーム対応なんぞ出来ない葵依は対応しきれずに、オロオロと助けを求めるように田中に視線を送った。  ──が、田中は隣のレジに並ぶ客の対応に追われているようで葵依の視線に気付かないようだった。実際はワザと聞こえないフリをしていたが葵依にそういうフリの見分けがつかなかった。 「お前の笑った顔が気に食わない」  今まで生きてきて、そんな言葉を言われた事がない葵依は戸惑った。母から「可愛い」と褒めらてばかりいた。  何も言えずにいると、それに調子ついたのかクレーマーは突然大声を放った。   「底辺コンビニ店員のくせに!」    クレーマーはレジ台を拳で叩きつけ、その音に葵依は肩を震わせる。  自分に非があると思い込んだ葵依は「ごめんなさい」と謝罪した。  クレーマーに手を掴まれる。葵依はただ普通に接客していただけで、まして新人でたどたどしいグリーティングは、「頑張れ」と応援したくなるものだったし、途中で接客用語を噛んでしまうのは庇護欲をそそられてしまう程可愛い。傍目から見て頑張りが分かるもので新人ながらも丁寧なものだった。そこを女で小柄だから「弱い」と思われたからか……日頃の鬱憤を晴らす対象に選ばれてしまう。  隣にいる田中はレジに並ぶ客はいないのにレジのドロアーの開閉を繰り返して、先輩バイトは陳列台の商品を並べている。細い手首を男の力で強く握られ怖い思いをしながらも自分の接客が不快に思わせてしまったんだ、と申し訳なくなり、葵依は自分を情けなく思っていた。それでも人前で涙を流してはいけない、と下唇を噛んで泣く事を堪えた。しかし小柄な葵依にとって自分より身長と幅もある男から力任せに来られるのは恐怖でしかなく……手首を掴んだクレーマーの爪が肉に食い込んで痛みに顔を歪めたところ──手首の痛みが軽くなる。  と同時に、ドンっ! という音がコンビニ内に響いた。  葵依の目の前で起きているのは、さっきまで自分の手首を掴んでいたクレーマーが額をレジ台に叩きつけられていた。その背後には真っ黒いスーツに身を包んだ男が立っていて、クレーマーの腕を片手一本で後ろ手に纏めて掴み、もう片方で後頭部を押さえつけていた。その正体が113番だ。  顔色変えず113番は背後からクレーマーの膝を蹴り真っ直ぐに立たせると、クレーマーの後ろ手を掴んだままコンビニを出て行く。  その様子を葵依は呆然としたまま見送った。  ──これが2年前の出来事だ。    それから暫くして葵依は助けてくれた113番へ感謝の言葉を伝え、彼がコンビニへ来る度に毎回煙草を買うから喫煙者だと知った葵依は、お礼にシガレットケースをプレゼントした。ライターも常に持っているだろうからと、ライター収納付シガレットケースだ。色は男性らしく、黒を選んだ。 「どうも」とぶっきら棒にお礼を言われ「贈り物は迷惑だったかな?」と一瞬悩みはしたが胸ポケットには贈ったシガレットケースがいつも覗いていたから愛用してくれているんだと葵依は嬉しくなったのだった。  だからと言ってその後は何かしらの進展があったわけではなく、ただの常連客と店員という関係である。これがきっかけで二人は顔を見たら会話するような仲にはならなかった。  葵依とこの男の会話と言えば。 『いらっしゃいませ!』 『113番ですね』 『600円頂戴致します』 『1000円お預かりします』 『ありがとうございます。またお越しくださいませ!』  他には『おはようございます』『こんにちは』『こんばんわ』くらいか。  葵依は客から世間話を振られれば会話はするものの、自ら声は掛けないのだ。根が真面目な葵依は仕事中に無駄話なんてしない。生活資金をバイトで稼いでいる彼女は、お金を貰う以上は必死に働くのだ。そんな彼女であるものの、愛想が良くて小柄で小動物のようにちょろちょろ動く葵衣にファンは沢山いる。本人が意識していないだけ。  とは言うものの過去にクレーマーから助けてくれた恩はある。他の客達と違って自ら笑顔で会釈するし、顔を見る度に「キレイな顔だなぁ」と思っていたりする。たまに同僚らしき男性とコンビニへ訪れる。陳列台の前でふざけ合って談笑をする姿が、いつも見せる姿と真逆なのだ。大きく口を開けて笑うその横顔がキラキラと輝いているように見えてしまう。もっと見たい、かも──仕事中なのに。    笑った顔、かわいい。  男の人なのに、そう思ってしまうのって変かな。  でも、そう思ってしまうのはきっとママと同じ煙草を吸っているからだ。    113番──その銘柄は葵依の亡くなった母が愛煙していたのと同じだった。だから親近感が湧いてしまうんだ、と葵依は思っていた。    葵依は彼氏いない歴=年齢だ。葵依の近くに居る男と言えば叔父と従兄だが、彼らとの交流は3年前に始まったばかりだ。だから葵依の男性免疫はないに等しい。顔面偏差値が高い113番に自ら声を掛けてお近付きになりたい、とかそういう感情は湧かなかった。  葵依の113番の認識は煙草を来店する度に買うヘビースモーカー止まりである。そして買っていく度に、  肺癌になったりしないのかな……。    と身体の心配までしていた。  今まで話しかけられた事がないのに、どうして声をかけてきたのか──葵依に思い浮かぶ理由はただ一つ「やっぱり112番か114番を渡しちゃったかも」である。 「正しい煙草に変えてあげなきゃ。でも私は未成年だから買えない」とか悩んでいたらテノールの声が葵依の耳に届いて顔を上げた。   「今日でバイトが最後だと聞いた」  113番って以外の声を近くで聞いたの初めて。    と男を見上げたまま、ホケッとしてしまってどうして今夜がバイト最終日だと知っているのかと疑問は湧かなかった。  男は葵依にじっと見られてゴホンと咳払いをする。彼の頬が若干赤く染まっている事を不思議に思いながらも男の咳を聞いて、意識が再編成された。   「今年受験だから勉強へ専念する為にバイトを辞めました」    本当は続けたかったけど──……。    葵依は特待生だ。常に学年10位以内を保っていて、一度でも11位に下がると奨学金が打ち切られてしまう。今まではバイトと学校を両立して上位を保てていたが、葵依には将来の夢を叶える為にどうしても進学したい大学があった。その為、今の勉強量では足りないと思い泣く泣く夏休み前にバイトを退職する事にした。幸い、バイトをしたお金は貯金をしているから生活費には困らないし勉強に専念する事が出来る。   「あれ……? 私が煙草の銘柄を間違えて渡したからじゃないんですか?」 「ん?」    男は首を傾げるのを見て、葵依も男と同じ向きに首を傾げた。   「私、113番さんに違う煙草を渡していないんですか?」 「113番……」    煙草の番号で呼ばれた男は呆然と呟いた。ショックに打ちひしがれる姿に気付いていない葵依は、どうやら自分はミスをしていないと知ってホッと胸を撫で下ろした。   「違う煙草を渡しちゃったから、声をかけられたって思いました」 「一度も間違えた事はない。いつも完璧だった」    そう言われて、葵依ははにかんだ。人に褒められると素直に嬉しい。   「ゴッ、ゴホッ、ウッ、ゴッ」    今度は激しく咳き込んだ男を心配して一歩近付くも「大丈夫だ」と手で制されて葵依は歩みを止めた。  葵依が一歩近付いたせいで二人の距離が縮まったのだが、咳き込む男が心配でその事は彼女の頭にはなかった。レジ台を挟んでいない息づかいが聞こえる距離で、これはいわゆる恋のアタックチャンスなのだが……。    まさか煙草の吸い過ぎで肺癌……?  咳き込んでる姿がママとそっくり……。    葵依の母は、女手一つで娘を立派に育て上げる。朝から晩まで働き詰めで気苦労が多かっただろうに娘の前では一切辛さを表に出さず、笑顔を絶やさない人だった。生活は貧しいながらも笑い声に包まれた楽しい生活──そんな生活の中で葵依の母親が止められなかったのは煙草だ。彼女は極度のヘビースモーカーだった。  末期の肺癌となった彼女は葵依が中学3年生の冬、葵依の15歳の誕生日を待たずして12月に永眠した。兄と甥と娘に囲まれて──…。  母を思い出してしまって、目が潤みそうになって葵依は慌てて手の甲を抓った。いつも泣きそうになった時はこうして痛みで誤魔化すのだ。それでも目の前に立つ男が心配で、 「もしかして……は、肺癌では……? 病院へ早く行かないと手遅れになりますよ」    ママは体調が悪いのに仕事が忙しくて、自分の身体の事を後回しにしちゃったから……。  それも全部、私を育てるため……。  私が居なきゃもっと長生き出来たんじゃないかな……。 「肺癌? 先月の健康診断は健康そのものだったが……?」  唐突に「肺癌ではないか?」と訊ねられ質問の意図を汲み取ろうと葵依をジッと見下ろした。気のせいか、目が潤んでいるように思え──目を細めて凝視した。   「本当ですか?」  爪先を上げでグイっと背伸びをした葵依は猫のように大きな目を見開いて男を見上げた。  葵依の小さくても柔らかい乳房が、フニッと自分の腹筋に触れて男は身体を後ろに引いてゴホっと咳き込んだ。それを見て葵依は青褪める。   「や、やっぱり肺癌」  私が煙草を渡したからっ。  仕事なのだから客の要望に応え売るのが仕事で、それをただ全うしただけなのだが……ママと同じ病気に罹った人が目の前に居る、と思ってしまうと考えがそこに及ばない。   「違う。これは照れ隠しだ!」  男はそう叫んで、スーツの衿を正した。つい口に手の甲を当ててまたも咳払いをしようとしてしまうが、慌てて手を下ろす。    ゴホゴホと咳き込んだ理由はただ一つ。  一つ一つの動作が可愛いから思わず抱き締めたい衝動に駆られてしまったのを、咳払いをする事で誤魔化した──である。  すっげー、可愛い……。  113番は葵依に惚れていた。    ──この子に今まで話しかけた事なんぞ一度もない。  ただ一度だけクレーマーにいちゃもんを付けられて絡まれている所を助けたが……その後も声をかける事はしなかった。 『昨日は助けてくれてありがとうございました!』  と頭を下げられ。  俺はなんと答えたか。 『あぁ』  だけである。それで会話は終了した。それ以来会話をした事がない。クレーマーの男に掴まれていた右手首はあれから1ヶ月も経つのに薄らと跡が残っていた。『大丈夫か?』という言葉さえかける事が出来なかった。  それから数日後にコンビニへ会いに行くとお礼にとプレゼントをもらった時は走り回ってその辺を歩く赤の他人に自慢をしたいくらい嬉しかった。そのシガレットケースはブランドもので、1万程はする代物だ。お礼としても他人の俺に送るには高校生にとったら高い買い物である。 『どうも』  いつも煙草を買う俺に何を贈れば良いか、俺の為に悩んでくれたプレゼント。死ぬほど嬉しいのに俺が言えた言葉はたった三文字だった。嬉しさを言葉に表すのを悩みに悩んだ結果がこれだ。俺はこうして声を掛けるチャンスを不意にした。  普段は口下手じゃない。それなのに、この子を前にすると態度が悪い客となってしまうのだ。  彼女を前にすると緊張して「113番」しか出てこない。同僚と一緒なら喋れるかもと思って職場から離れた場所にわざわざ同僚を何度か連れて行ったが──結果は同じだった。むしろ同僚の方が「年いくつなの?」と今まで訊ねられなかった事を訊いていた。「ご苦労さん」「頑張ってね」という労いの言葉をも掛ける──勝手にヤキモチを妬いた俺はこいつと半日口を聞かなかった。  客が彼女と会話をしている姿を何度も目撃した事だってある。 『今日はいい天気だったわねぇ』 『──ポカポカしてましたね。私、授業中ウトウトしちゃいました』  ──俺は天気さえも訊く事が出来ない。  あぁあ、クソ! 『ポカポカ』と『ウトウト』とか可愛すぎだろ……!! なんだよその言い回し!! 『このあと暇?』 『──ご飯を食べてお風呂に入ってから寝ます!』  ──遊びに誘うなんて以ての外だ。話しかけられない俺が誘えるわけない。  クソサラリーマンが。高校生を誘ってんじゃねぇよ。それに高校生は22時以降の外出は青少年保護育成条例で制限してんだよ。保護者の理由なく深夜に外出させない、保護者の許可なく青少年を深夜に連れ出さない、青少年を深夜に店舗や施設内にいれてはならねぇんだよ! 学び直せよクソが! 正当な理由がないと本人の深夜外出は禁止なんだよ!  でも本人は誘われている事に全く気付いていないがな! ハハハハハハッ!  って言うかこのクソコンビニ、いくら22時まで働かせ良いからって時間通りまで働かせるなよ。21時には帰らせて22時までには風呂と飯を済ませられるようにしとけ! 夜道は危ねぇんだよ!  それと高校生を連勤させるな! 休んだ誰かの代わりに高校生を頼るな! 頼みやすいから頼んでいるんだろ! テスト期間中は働かせるな! 誕生日くらい休ませろ! 年末年始も1日くらい休みを与えろよ! 体調が悪そうなのに無理矢理働かせるな!  ──と、クソデカ感情を抱きつつも。    話しかけたい……誕生日おめでとう、あけましておめでとう、とか言いたい……。    と、思うだけで、何も言えないまま2年経過した。
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