1章:私の彼氏はちょっとだけ心配性。

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 ──113番は激務な仕事の合間を縫って、自宅と職場から離れたコンビニへ車を走らせ、高い駐車料金を払ってまで近くのコインパーキングへ停めて葵依が働くコンビニへ可能な限り通い続けた。  葵依が他の男性客と会話をしている姿を横目で見ながら、愛煙している113番の煙草をひたすら買うだけ──それも彼女がバイトの日だけ。忙しい仕事の合間を縫って訪れ、出張の帰りに寄ったり。話しかけず、ただ見守るように。  この男、決して女性に免疫がないわけではない。  目から鼻にかけてのラインがすっきりとキレイなラインを描いていて、涼やかな切れ長の双眸で、スッと通った鼻梁は程よい高さだ。艶があって柔らかそうな唇は、触れてみたいといった感情を持ってしまいそうな色気が溢れ出ている。やや長い前髪をセンターに分け、サイドとバックを刈り上げた髪型はスタイリッシュな雰囲気を醸し出している。威圧感を感じさせない中性的な顔立ちと清潔感で、男は大層モテてきた……これでモテない訳がない。それでも遅すぎた初恋のせいなのか、遊びでしか女と向き合ってこなかったからか、普段は誰にでも臆さずに話せるというのに葵依にだけは話しかける事が出来ずなかった。  深夜帯に働くフリーター中年を使って彼女のシフトを手に入れてまで、葵依に会う為だけにこのコンビニに通い続けたというのに、どう接したら良いか分からず時間だけが過ぎた。  仕事が忙しくて、毎日通えなかったが……やっている事はストーカーと変わらねぇ。  仕事が激務じゃなければ、彼女がシフトの度に通っていた自信はある。ただ、顔が良い分ストーカとは間違えられないだろう。  この男、葵依の誕生日を中年フリーターには訊かず自分で調べ上げた程である。  そんな密かに片想いを抱いている子が、中年フリーターから葵依がバイトを辞めると聞いて焦った。このままでは接点がない俺らは二度と会う事はないだろう──そこで、最後のバイトの日、コンビニから出たところで声をかけた……ところまで良かったが、近くに寄ると柔軟剤の良い香りがするし、顔が小さくて、目は大きくて……言葉が上手く出ず、それでも気持ちが先に来て「抱き締めたい」「近くで匂いを嗅ぎたい」とかいう雑念を消す為に、取り敢えずは咳払いをして誤魔化したのだ。まさかそれが肺癌と誤解されるなんて思いもしなかった。 「……照れ隠し?」    目をパチパチさせる葵依に113番は「あぁ」と短く答えた。 「白石さんのバイトは今日が最後だから声を掛けようと思ったんだ」 「あれ? 名前?」  どうして名前を知ってるんだろ? と首を傾げると 「バイト中、名札を見てたから」  と男は自分の右胸を指した。バイト中はその場所にネームプレートを差すのだ。 「そうなんですね」  納得して頷く。  名前を知られていたなんて、と思うとどうしてか嬉しい気持ちが湧いてきて口元が緩んでしまう。 「俺は(いち)だ──金城(きんじょう)壱」  113番──金城壱は頷いた。 「金城さんは今日、どうされたんですか?」 「──壱だ。名前で呼んで欲しい」 「でも、年上なのに」 「頼む」  壱の切実な声に面食らって、葵依は「は、はい」と小さく返事をする。 「壱さん」  男の名前を呼ぶのは葵依は茂の息子、(かえで)以外初めてだ。それに楓とは年が3歳しか変わらない。なんだか気恥ずかしくて、葵依は俯いた。  壱は壱で葵依から名前を呼ばれて満足そうに頷いた。 「質問の答えだが……二度と会えないと思って、声をかけた」 「……二度と、会えない?」  顔を上げえて、葵依は首を傾げて思案した。 『二度と会えない』……店員とお客様という立場でしか会った事はないから、お外で会う事はないのかぁ……。壱の口からそんな事を言われると思っていなかった葵依の胸にフトした寂しさがギュッと胸を絞ったように痛んで、思わず胸に手を当てる。この感覚は、死期が近い母親に二度と会えないと思う度に感じていた苦しさに少し似ているような気がする。近くで顔を見る事も声を聞く事も、肌の温かさをもう二度と感じる事が出来ない切なさ……。どうして、バイト先の常連さんへそんな感情を抱くんだろう。  ママと同じ煙草を吸っているからかな。   「白石さんだから買っていた」  葵依はキョトンとして言葉の意味を考えた──私だから、ってどういう意味だろう?  壱を見上げると、今になって距離が近い事に気がついた。自分の胸と壱の腹付近が触れ合っている。胸に当たる腹が硬くて自分との違いが分かって、妙な恥ずかしさが込み上げてきた。慌てて後ろに下がろうとすると、追いかけてくるように下がった分の距離を追い詰めてくる。 「意味……分かるか?」    腰を引き寄せられ──密着する。  小さな胸が男の厚い腹に潰されて、そこから熱が伝わった。二人の身体の間に手を入れて、壱の胸を押そうとするも力の差があってビクともしない。壱が触れた腰からもジワジワと広がるように熱が広まっていく感覚に陥った。  怖さを覚えるも──壱の真摯な眼差しと目が合った瞬間、その瞳に吸い込まれるような感覚が葵依を襲う。  どうして私をこんなにも見つめているんだろう……バイト中は一度も合った事がないのに。 「好きだ」  後ろ髪より少しだけ長い前髪が横頬を擦り、唇がゆっくりと動く。その様子がスローモーションのように見えて、理解するのに時間がかかった。 「好きだ」  またもや言われ。  壱の顔は信じられない程に真剣で冗談を言っているようには見えない。   「そ、そんな……何度も言わなくても……」 「俺は白石葵依が好きだ」    熱い吐息と共にフルネームで名を呼ばれた葵依は口を噤んだ。  どうして壱に告白をれているのか理解が追い付かない。今までろくに言葉を交わした事がないのに。   「俺は何度でも言う。好きだ」  葵依は返事の代わりにギュッと目を閉じる。  どうして告白をされているのか暗闇の中考えようとして目を閉じたのだが……これでは『キス待ち』をしているように見えた。実際、壱は堪えるように眉間に皺を寄せて、ゴクリと唾を飲み込む音が壱から漏れる。  ふー、と壱は長い息を吐くと、葵依の頬に触れた──全理性を総動員させて葵依の唇に触れるのを止めた。それを知らない葵依は自分の頬にひんやりとした何かの感触に瞼を痙攣させる。目元をなぞる何かの動きが目を開けるようにと催促しているように感じて、葵依はゆっくりと目を開いた。その正体は壱の指だったようで、指は一本、ニ本と増えていき……掌で包み込むように頬に触れた。親指で目の下を優しく、何度も撫でられて葵依は擽ったそうだ。 「ど、どうして私を? ちゃんと喋ったことはないのに……」  暗闇で考えてみたけど答えが出なかった。本人へ訊いた方が早いと思った。  指の動きのように、優しい目をして自分を見下ろす壱の目を見て訊ねると壱はフッと微笑んだ。その笑みがあまりにも色っぽく、いつものぶっきら棒さが嘘のようで目がテンになってしまう。 「一目惚れだった。2年前からずっと好きだった。話しかける機会を逃し続けて今日まできたんだ。バイトを辞めると知って二度と会えなくなるのは辛い。だから、告白をしようと決めた」  た、くさん喋ってる……喋れるんだ……。  つい感心してしまう。   「俺と付き合って欲しい」 「で、でもお互いの事を良く知らないですし……」 「これから知っていけば良い」 「私なんて面白くないですし一緒に居ても楽しくないですよ?」  勉強とバイトに明け暮れる日々だし、友達一人だし……。その友達にも「付き合いが悪い」って言われるし……。 「葵依と付き合えるだけで俺は幸せだ。それに面白いか楽しいかは俺が決める」 「今、すでに俺は楽しい」と言われ、不覚にもときめいてしまった。  「俺の彼女になって欲しい」 「勉強に専念したいので……」 「俺は邪魔をしない」 「で、でも私、受験生だから、デートとかする暇ないです」 「安心してくれ。俺の仕事は激務なんだ。デートをする暇はない」  デートをしないカップルって付き合っているって言えるのかな……? 「俺が好きか嫌いか考えろ」  考えろって言われても。  笑顔を可愛い、って思うけど……それは「好き」って言わないよね?   「俺が嫌い?」  そう言葉を投げられて、じっと壱の眼を見る。  クレーマーから助けてくれた人を嫌いだなんて言えない。 「嫌いじゃないです」 「じゃあ、好きか?」  答えに詰まって視線を彷徨わせると、「俺の顔を見て」と頬に当たる壱の掌が動いて無理矢理、壱の視線と合わせられる。  力強くガン見された葵依は、「この距離じゃ毛穴とか見えちゃうんじゃないかな」とかどうでも良い事が気になりだしてきた。それに、バイト帰りだから汗臭いかもしれない……臭いと思われていたら嫌だな。とにかく、離れたい。そう思っても腰に手が回っているし、そんなに見つめられていたら動けない。 「うぇぇっと……分からない……です」 「そうか」  そう呟いたから諦めてくれたのかな、と思ったが壱の発言に葵依を聞いて勘違いだと知る。 「調べよう」 「どうやってですか……?」  キョトンとしている葵依の右手に壱の指が絡んできて、ドキッとしているとそのまま持ち上げられる。  その様子をジッと眺めていたら見下ろされていた筈なのに視線の高さが同じになる。いつの間にか腰に回されていた手の感触は消えていて。逃げるなら今なのに、流れるような動作に見惚れてしまって動けない。自分の手の甲に壱の顔が近付いていく──少しだけ濡れた柔らかい感触で葵依の意識ははっきりと覚醒した。 「にゃ、にをっ?」  ガジっと唇の裏を噛んでしまって声が裏返ってしまったが、痛みを忘れるくらいの衝撃だった。  驚きのあまり手を振り上げようとしても、壱の掌の上から動けない。指四本に支えられ親指で自分の中指の爪をクルクルと撫でているだけで、ビクともしない。痛さは感じないから、そこまで力を入れていない筈なのに……。   「小さくてキレイな爪だ」 「あ、りがとう……ございます」  うっとりとした口調で爪を撫でながら、葵依は褒められて礼を述べてしまった。ここは「触らないで下さい」と拒否をするべきである。数分前に腰を触られた時にでも拒否すれば良かったのだ。いくら過去にクレーマーから助けてもらっていて、常連であろうが今まで会話をした事がない男なのだ。例えイケメンだろうがそんな男から告白されたら身構えなければならない、しかし、しっかりしているようで抜けている、男性免疫がゼロの葵依にそういった危機管理能力は備わっていなかった。 「あ、あの……今のキスで分かるんですか?」 「いや」 「じゃあ、どうして手の甲にキスを……?」  否定した壱を葵依は唖然として見つめ。その様子を見て壱は肩を竦めて見せた。 「いつも小さくて可愛い手だな、って思ってたからキスをした」 「だから手の甲にキスを……」  なるほど。    と心の中でポンと手を打って納得をする。  壱が淀みなくはっきりと理由を口にしたので、納得してしまった。決して納得するような内容ではないのだが……。 「でも──本当のキスはもっと濃厚なのをするよ」  ボソッとした呟きが耳に入り。    のうこう……?  チュッと一度だけの軽いキスだけでも、まだ手の甲に余韻が残っているのに……濃厚って、どれくらい……?  想像が付かずに一人で悩んでいると「じゃあ調べるから」と目の前の壱に隣に立たれた。 「あっ」と思った時は壱に肩を抱かれて引き寄せられる。 「キャッ」  肩が驚きで飛び上がって葵依は可愛い悲鳴を上げた。その声を聞いた壱は「悲鳴まで可愛いな」と唸った。  突然、肩を抱かれて目を白黒させた葵依は、 「どうして肩を抱くんですかっ?」  今になって葵依の唯一の友達が「高校生に告白する年上男は皆ロリコンだから気を付けろ」とか言っていたのを思い出す。それに付け加えて「あんたは小柄で見たまんまロリなんだから、それに近付く男はもっとヤバい」とも忠告された。  茂と楓からは「近寄る男は自分に害をなすと思え」と口を酸っぱくして言われいた。 『害をなすって……刺されたり……とかですか?』  そう訊ねると、二人からこっぴどく叱られた。 『男は下心があるから、葵依に近付くんだぞ』 『言葉巧みに、害がないようなフリをして近付くんだ。刺されるなんて最悪なパターンだ。葵依は一人で暮らしちゃいけない』  そこから二人の「引っ越してこい」コールが始まってしまう。 『害をなす』というのが刺される以外になんだというのか茂も楓も教えてくれなかった。害をなされるような事柄を単純に葵依が鈍過ぎて、相手の思惑に全く気が付かず華麗にスルーしてきたので、男の毒牙を免れていたから無事なのである。  それはさておき。  葵依はきっと壱さんが私に害を為す人なのだという考えに及んだ。  今まで喋った事がないのに、私に二度と会えなくなるのが辛いからって、帰り途中に呼び止めて告白なんてしない。  普通、こんなに傍に寄らないもん。  でも、クレーマーから助けてくれた壱さんをどうしても悪い人だと思えない。  で、でも強く拒否らないと。  隣に立つ壱を、顔を上げて精一杯睨み付け──ようとしたが、大きな目の形はそのままで見つめるだけに留まった。  何故なら壱が真剣な面持ちで自分を見つめていたからである。  二人は見つめ合う形になった。  い、いつまでこの状態で居たら……。  眉目秀麗な顔を間近で見る事に堪え切れず葵依が先にギブアップをする。  葵依はツイっと視線を逸らして、壱の顔横の何もない空間を見た。  そうしていたら、肩を抱いた手と逆の手で自分の手首を握られて葵依は視線をそちらに移す。 「これは?」 「脈を測る」 「脈を測る」 「質問をするから、全部いいえで答えてくれ」 「質問する……全部いいえで答える」  壱の言葉をオウム返しした葵依は、さっき、調べると言っていたのは脈を測る事だったんですね……と考え及ぶ。そして、はて? と首を傾げた。脈を測るだけなら、手の甲にキスをする必要あったのかな。   「名前は白石葵依?」 「いいえ」 「性別は男?」 「いいえ」 「血液型はA型?」 「いいえ」 「誕生日は12月24日?」 「いいえ」  ん……? どうして私の誕生日と血液型を知っているんだろ……? たまたまかな……? 「俺が好きか?」 「いいえ」  壱の言う通りに葵依は質問に次々と「いいえ」で答えていく。 「好きか?」という問いに「いいえ」と答えたら、ズキンと胸が痛んだような気が。 「メロンは好き?」 「いいえ」 「茄子は好き?」 「いいえ」 「俺が嫌い?」 「いいえ」 「猫は好き?」 「いいえ」 「俺を見るとドキドキする?」 「いいえ」 「犬は好き?」 「いいえ」 「イチゴは嫌い?」 「いいえ」 「俺の顔は好き?」 「いいえ」 「虫は好き?」 「いいえ」 「好きな色は青色?」 「いいえ」 「好きな色はピンク?」 「いいえ」  壱の親指が手首の脈の上にあるのを、葵依は質問に答えながらじっと見つめる。果してこれでどんなことが分かるのか葵依には分からない。 「恋だ」  突然告げられて葵依はバッと顔を上げた。 「ん?」と首を少し傾けたまま、こちらを見下ろしている黒い瞳と目が合った。でもそれは、純粋な黒ではなく深い焦げ茶色だ。壱からフッと微笑まれて、ドギマギしてしまうし顔が熱くなる。でも今は照れている場合ではない。 「俺が好きか嫌いか、顔が好きか、俺を見るとドキドキするか、という質問の問いに1分間90回に対して120回以上の心拍数だった。即ち、俺の事が好きって事だ」 「えっ、あっ?」 「あとメロンとイチゴは大好物、茄子は嫌い、猫と犬は好き、虫は嫌い、ピンクよりも青色が好きって事も分かった」 「脈を測るだけでそんなことまで?」  私の見た目だけでみんな『ピンク色が好き』って決めつけるのに……好きな色まで当ててしまうなんて。  感嘆の声を上げてしまって「感心している場合じゃない」と葵依は首を左右に振った。そしてここで初めて、壱から距離を取る。肩に回されていた手は案外簡単に解けた。  そのまま後ろ向きに二、三歩いて葵依は足を止めた。目の端に信号が青から赤へ点滅している光が入る。このまま走って信号を渡れば逃げられる。そう思ったが脚は信号に向かわなかった。爪先は変わらず壱の方を向いている。
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