第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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「どうにかします」  その静かな一言が、まるで凍りついた空気を裂くかのように響いた。 「え……?」  壱が驚き、目を見開いたまま水野を見つめた。その次の言葉が信じられなかった。 「記事を書けと命じた人物に、直接交渉をしましょう」 「交渉……?」    その言葉の重さに、壱は一瞬言葉を失った。  それは、壱だけではなくこの部屋にいる全員が唖然としながら水野を凝視する。 「私のガセネタは世に出てしまいましたが、交渉次第で金城の記事は止めてもらえるかもしれません」    水野は、そう冷静な口調で続けた。 「そんなことが本当にできるのか?」と室町が驚愕した声で割って入った。  長谷川は水野の発言に戸惑いつつ、咳払いで一旦気を取り直して水野を見据える。 「交渉する、って総理は水野警視正と金城警部補に会いたくないと連絡してきたんだぞ?」 「しかし、このままではいけません。総理は軽井沢の別荘には向かわずに自宅にいらっしゃいますよね? 私の部下がもう既に待機しています。それに合流します」 「行っても門前払いされるだけだぞ」 「魔法の言葉を使います」 「魔法の言葉?」と水野以外の声が見事に被る。全員が水野に戸惑いを見せていた。  壱自身も、水野の冷静さについ苛立っていたのだが水野が喋れば喋るほど、彼の思考が読めずに困惑の沼に嵌っていく一方だった。 「金城の記事を止めてもらって、私の記事はガセだということを総理の口から国民に伝えてもらい、私は処分を免れる。ウィンウィンでは?」 「そんな簡単に上手く行くわけないだろ」 「先代とは違って、現総理は話せばわかる方です。ただ……どれだけの怒りを溜めているかによりますが」  その言葉に、壱は水野からちらりと視線を向けられた。だが、壱には門ヶ原茂を怒らせた覚えは一切ない。一度も会ったこともなければ、接点もない。思わず頭の中で思い返してみるが、何も思い当たる節がない。 (門ヶ原に恨まれる理由なんて俺にはない。水野さんは一体何を知っているんだ?)  壱が門ヶ原総理に会う予定だったのは、明後日の彼の警護の時。それまで一度も接触はなく、もし今日や明日がなければ、壱は葵依と誕生日を一緒に過ごす予定だったのだ。  水野は一体何を知っているのか。聞いたところで、教えてくれるような人間じゃないことを壱は知っている。 「SP時代は門ヶ原を避けていただろ」  室町の言葉には苛立ちが滲んでいた。   「避けたくて避けていた訳じゃありません。周囲が避けさせようとしてくるので、それに倣いました」  水野の返答は淡々としていたが、その態度には一切の揺るぎがない。   「噂は!? あの噂はなんだ!」  室町は更に問い詰めた。   「あれは周囲が勝手に門ヶ原家と確執があると騒いでいただけです」  水野は感情を表すことなく静かに答える。   「現に、門ヶ原前総理の警備を外れただろ! 葬儀にも行かなかったじゃないか!」 「香典は包みましたよ」  水野の返答は変わらず冷静だった。  その態度があまりに一貫している為、室町の顔に次第に疲労が浮かんでいった。やり取りが続くほど、彼の怒りと疑念が空回りし、疲弊していくように見えた。水野の無感情な壁にぶつかり続ける室町の姿は、周囲に重苦しい沈黙を生み出していた。   「勝ち目はあるのか?」  静かに長谷川がそう訊ねた。水野もまた静かに返す。   「人には言えない弱みを握っているので」 「上官にもいえないのか?」 「──知ってしまえば消されますよ」  誰もがハッと息を呑んだ。 「冗談です」 「こ、こんな時に冗談言うな!」    室町は顔を真っ赤にして怒鳴るも当初の勢いは失われていた。水野の変化のなさに疲れ切ってしまったのだろう──長谷川と黒沢にも同じことが言えた。 (水野さんは無表情の下で、そんなことを考えてたのか……?)  勝算があるから門ヶ原と交渉しようなんて突拍子もないことを言い出したのだ。想像もつかないような隠された策があるのだろう……。 (本当にこの人は……)  壱はどっと疲れた顔で水野の横顔を見つめた。その無表情の奥に、何が隠されているのか。どんな計算が巡っているのか、壱にはまるで掴めない。しかし、その態度には不思議な安心感もあった。もしかしたら、水野にはこの窮地を打開するための手段があるのかもしれない。けれど同時に、不安も拭いきれない。  ふと、壱は手にしたままも水野の記事が書かれた週刊誌に目を落とした。ここに書かれていることが全て嘘だというのに、何故水野はこれほどまでに冷静でいられるのか。その答えがこの中にあるのだろうか。  
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