第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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 壱と水野は警察庁のエントランスホールを横切った。ガラス越しに見える外の景色は、昼間の晴天が嘘のように、重く垂れ込んだ雲から雨が降り仕切っていた。  外へ踏み出した瞬間、雨の音が一層強く耳に届く。二人は濡れた路面に目を向け、無言のまま歩みを進める。雨は生温かい風に乗って斜めに降り注ぎ、スーツの肩に次々と水滴が染みていく。まるでその先に待つ状況を暗示するかのような重い雰囲気を纏っていた。    車に到着し壱が運転席に腰を下ろすと、再び降りしきる雨音がガラスを伝って響き渡る。濡れたスーツが肌に冷たく張りつき、壱は軽く息をつきながらポケットからハンカチを取り出し、額や首筋の水滴を丁寧に拭き取った。助手席の水野も黙って濡れた手を膝に置き、指先の水滴を払うようにして袖口を軽く拭っている。  ワイパーを動かすと、無数の水滴が一瞬で掻き消されるが、すぐにまた新たな水の筋が窓一面を覆った。 「ずいぶん降ってますね」  壱の言葉に、水野は小さく頷いた。  壱はハンカチで最後にスーツの肩の水滴を拭いながら窓の外を見やった。  ワイパーがリズミカルに動き、視界を確保するたびに雨粒が新たにフロントガラスを覆い尽くす。壱はハンドルを握りながら、水野に視線を向けた。 「どんな感じで交渉するんですか?」  少し緊張が滲む声で問いかける。助手席の水野は視線を前方に据えたまま、返答の気配を見せない。壱は答えてもらえないのかと肩を落としかけたが、不意に小さな声が返ってきた。 「話をするだけだ」  その静かな返答に、壱は少しだけ驚きつつもホッとした。門ヶ原邸までの距離が確実に縮まっていく中、水野の短い言葉には、不安を取り払うような確かな意志が宿っている気がした。 「本当に話が分かる方なんですか?」 「二十年前はそうだった」    意外な答えに、壱は驚きで目を見開いた。水野が自分の過去を語るなんて、そうあることではない。じわりと嬉しさが湧き上がり壱は思わず微笑んだ。 (寺岡さんが知ったら悔しがるだろうな)  寺岡は水野信者だ。彼を尊敬してやまない。後で自慢してやろうと内心決意しつつ、更に質問を重ねてみる。 (あとで自慢してやろう) 「総理と同じ歳ですっけ?」 「そうだ」 「どんな会話をしたかとか覚えてます?」  訊ねると、水野は思いのほか気さくに答えを返してきた。 「非番は何をしているのか、趣味は何か、好きな食べ物、靴と服のサイズ……そんなことだな」 「まるでお見合いしてるみたいな会話っすね」  壱がそう冗談を言うと、水野は静かに笑い、柔らかい笑みが浮かんだ。その穏やかな横顔に、壱は思わず見惚れてしまう。男に対してこんな気持ちを抱くとは思わなかったが、その柔らかさが心に沁みる。どこか既視感があり、頭の奥に眠る記憶と重なりそうな気さえした──誰と重ねたのか、はっきり分からないけれど。 「今思えば……俺の話を聞かせる為だったんだろうな」 「──え?」  驚いて「誰に?」と尋ねかけたその時、信号が青に変わったことに気付かず、後続車のクラクションが鳴り響いた。その音に、壱の声は掻き消されてしまった。 「安全運転で向かってくれ」  水野の言葉に促され、壱は背筋を正して再び前方を見据える。 「承知しました」  壱は真剣な表情でハンドルを握り、しっかりと車を走らせ始めた。    やり取りが途切れ、車内に静寂が戻ると水野はふと隣に座る壱の横顔を一瞥した。真剣な表情で前方を見据え、ハンドルを握りしめる壱の姿が目に映る。先程の焦っていた雰囲気は嘘のように影を潜め、どこか力強さと覚悟が垣間見えるようだった。  一瞬視線を留めたあと、水野はゆっくりと目を窓の外へ向けた。雨に煙る街並みが車窓を流れていき、ぼやけた街灯が時折ぼんやりと視界を照らす。その景色に、ただ静かに目を向けていた。   『結婚したいんだろ?』 『はい!』  躊躇なく即答した壱のあの表情を思い浮かべると、水野の口元がほのかに緩む。自分の問いに真っ直ぐ答える壱の姿は、どこか微笑ましいものだった。  窓の外を流れる景色を眺めながら、水野はふと、忘れかけていた自分の過去を掘り起こしていた。  純粋に部下の幸福を願う。それが永遠に続いてくれればいいのに──。  誰かを心配し、その人と幸せになりたいと願う気持ち。その相手の為なら、自分を犠牲にしてでも前に進もうとする強い想い。それは、壱が持つ覚悟だ。だが、その自己犠牲の覚悟を自分は持てなかった。  少しだけ、胸の奥が痛む。
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