第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦  水野尚之(なおゆき)は一般家庭で生まれた。  母は長男の出産を機に専業主婦になった女性で、父は普通の営業サラリーマンだったが都内に家を建てるくらいだから、普通に稼ぎはあったのだろう。二階建ての庭付き、4LDK。そこそこ良い家で、二階の奥は六歳の水野少年の部屋でその隣の空き室は、夏に生まれる予定の弟の部屋として用意されていた。  弟の誕生を一番楽しみにしていたのは、水野少年だった。弟と妹がいる友達の愚痴を聞く度に羨ましくて仕方なかった。 『付き纏ってうざい』 『真似ばかりする』 『お姉ちゃんなんだからと言われるのがムカつく』  そして、遊んでいるところに弟と妹が一緒に遊んでほしいから輪に入って来ようとするのを邪心に扱っているのを見て、「僕だったらしないのに」といつも思っていた。自分よりも小さな子が自分を慕ってくれるなんて嬉しいじゃないか。小さな子は守る対象であって、可愛い──そんなことをずっと考えていた。自分に弟か妹がいたなら沢山遊んであげて、勉強も教えてあげたい。そして、守ってあげるのだ──そんなことを思うくらい彼は優しい少年だった。  そんなある日、 「弟か妹ができるのよ。お兄ちゃんになるの」  母親からそう教えてもらって時、真っ先にきたのは喜びだった。 「僕が名前を考える!」  そう言って、図書館で赤ちゃんの名付け図鑑を広げて調べたのだ。先入観を捨てる為に両親は男の子か女の子を病院へ聞かなかった。だから、どちらが生まれるか知らない両方に使える名前を必死に探し出した。   『葵』  という名前が目についた。  意味は豊かさ、気高さ、逞しさ、清廉、大望、忠実、穏やかって意味があるらしい。元気で、明るくてそんなイメージがある言葉で男女に使える名前だとあって、水野少年は葵という名を両親に提案した。すると、両親はそのまま採用してくれたのだ。  この日から、母親のお腹にその名で語りかけた。一番声をかけるのは、もちろん水野少年だ。  日に日に母の腹が大きくなっていくのを見て、水野少年は赤ん坊を守る為に自分も立派なお兄ちゃんにならなくてはと心に決めていた。  水野少年は家族が増える喜びで胸を膨らませていたが、ある日母親が体調を崩し、医師から「切迫早産の恐れがある」と告げられる。母親は入院することとなり、家には父親と自分だけが残されることになった。父親は昼間は仕事で留守にする為、水野少年だけ他県に住む母方の祖父母の家で暫く過ごすことになった。  やがて、夏休みの始まりとともに水野少年は荷物をまとめ、電車に乗って祖父母の住む静かな田舎へと向かった。普段と違う家と、どこか古びた匂いのする縁側や広い庭のある暮らしに少し寂しさも感じながら、ふと母親のことを思い出しては、遠く離れた病院で赤ん坊の為に安静にしている母親の姿を頭に浮かべた。そして、毎晩寝る前には祖父母に内緒で「葵、元気で生まれてくるんだよ」とそっと呟き、自分にできる小さなお祈りを続けるのだった。    水野少年のお祈りが効いたのか──葵は元気に生まれてきた。色白で玉のような男の子で、父親から送られてきた写真を見た時、少年の胸は喜びでいっぱいになった。  母親の退院日に合わせて水野少年は自分の家へ帰ることが決まった。電車を降りてすぐ、走って家へと向かった。庭の花壇の花が風に揺れ、家の窓がどこか優しく少年を迎えてくれているように見えた。いつもと変わらない家の風景だけど、今日だけは特別だ。ここに「母」と「父」と、写真でしか見たことがない「弟」が待っているのだと思うと、心が高鳴り、早く会いたくて仕方がない。  水野少年は、心躍るような気持ちで玄関の鍵を開けようとした。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込むが、手に伝わる感触がなんだかおかしい。ドアノブを引くと、扉は開かずガチャっと音がするだけで開かなかった。 「えっ?」  と小さく呟き、鍵をもう一度回してみる。ドアノブを手前に引くと、引っ掛かる様子はなかった。どうやら鍵が開いていたらしい。開けっ放しなんて珍しいな、と首を傾げながら、少年はゆっくりと扉に手をかけた。  扉を押し開き、中に足を踏み入れた。
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