第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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 ♦  万里は、葵依が自宅に来ると伝えていた時間を過ぎても現れないことに不安を感じ、玄関を見に行った。外は激しい雨が止んだばかりで、あたりは湿った静寂に包まれている。万里が扉を開けたその瞬間、濡れそぼった葵依が骨袋を抱き締めたまま、玄関先に立っていた。 「葵依……!?」  と、万里は思わず息を呑む。肩から滴り落ちる雨水に髪は顔に張り付き、震える葵依の顔色は青白かった。どこか焦点の定まらない瞳で、ずぶ濡れのまま彼女は万里を見上げた。  何があったのか、問い詰めたい気持ちを抑えて、万里は葵依の肩を優しく引き寄せる。 「まずは温かいお風呂に入ろう」  葵依は疲れた様子で頷き、万里に支えられながら玄関に足を踏み入れた。そのまま浴室へ向かい、背中をそっと押されると、万里の家の優しい暖かさが心に染み込んでくるようだった。  葵依がシャワーを浴びている間、万里は彼女の手からそっと受け取った骨袋をタオルで丁寧に拭き、ドライヤーで乾かし始めた。暫くして浴室から戻ってきた葵依は、万里が用意してくれたブカブカのジャージを身に纏い、「壺が割れてなくてよかった……」と、割れていない骨壺に安堵の息を漏らした。  しかし、骨壺の横に置いてある遥の写真に気付き、表情が曇る。雨に打たれて滲んだ写真の画像が、今にも剥がれ落ちそうになっている。遺影として唯一残っている母親の笑顔の写真。大切な一枚。  葵依は震える指先でそっと写真に触れながら、「これしかないのに……」と呟いた。思い出が滲み出していくような気がして、涙がじわりと瞳に溢れかける。強く瞬きして涙を堪えようとするも、心の奥から込み上げる寂しさが止まらなかった。   「写真の復元ができるところを知ってるから、お願いしてあげる」  その言葉に、葵依は一瞬驚いたように目を見開き、やがて安堵に似た微笑みを浮かべた。 「……ありがとうございます」と小さく礼を言い、少しだけ頬が緩む。その表情を見た万里は葵依に笑顔が戻ってきて、ほっと胸を撫で下ろした。  万里はそっと葵依の肩に手を置き、「少し休もうか」と優しく声をかけた。葵依は頷き、万里のあとについて歩き出した。静かに階段を上がり、万里の部屋へと向かう。  部屋に入ると、万里は葵依をベッドの端に座らせて葵依を落ち着かせる為に、人肌より少し温かい緑茶を手渡した。葵依が湯気の立つ湯飲みを両手で包むように持ち、ぼんやりと眺めていると、万里もそっと隣に腰を下ろし、穏やかな声で言った。 「葵依、一体何があったの?」  話をしていいのかな……と悩んで葵依は湯呑みの中身をじっと見つめた。水面に浮かんだ揺らぐ自分を見て、はっきしない姿がまるで今の自分のようだと葵依は思った。  葵依は湯飲みを両手で包み込むように持ちながら、そこから立ち上る薄い湯気にじっと目を落とした。何かを言おうとしては、唇を微かに動かすものの、言葉が喉の奥で絡まって、結局声にならないまま飲み込んでしまう。   「……うん」  葵依は湯飲みの湯気をじっと見つめ、揺れる自分の心を隠すようにして小さく頷いた。けれどその直後、何も言えずに黙り込んでしまう。目の前の万里が優しい眼差しで待ってくれていることは分かっている。 「抱え込むと、余計辛いよ」  万里の優しい言葉に、葵依はくしゃりと顔を歪めた。目の前が揺らいで見えるのは涙が出そうだからだ。  葵依は涙を堪えようと必死だったが、もう堪えきれそうになかった。かつてはどんな時でも、平気なふりをして笑顔で隠せた筈なのに、壱と出会ってからその仮面があっけなく崩れてしまった。胸の中で、彼への想いがどうしようもなく溢れてくる。泣きそうになる自分に苛立ちつつも、どうにもならなかった。 (ぜんぶ、ぜんぶ──壱さんのせいだ)  彼と出会ったせいで、弱くなってしまった──……。  弱音を見せたくなかった筈なのに、壱と過ごすうちに、心が勝手に柔らかくなってしまった気がする。抑えようとしても、ふっと涙が頬を伝った。  これまで、一人で耐えなければと自分を押さえ込んでいた重い気持ちが、とうとう限界に達していた。胸の奥に溜まった想いが次々と押し寄せてきて、堰を切ったように声に変わろうとしていた。 「万里……」  葵依は湯飲みを見つめ、震える声でぽつりと呟いた。彼女の唇は乾き、ほんの少し俯きながら、葵依はそっと口を開き、少し震える声で絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。 「万里」と葵依はもう一度名前を呼ぶ。その視線は万里に向けられないまま、握り締めたまま湯飲みをぎゅっと掴み、震えた息を吐いた。 「万里の電話の後に、マンションの外に居るから出てきなさいって電話で叔父さんから呼ばたの」 「マンション? 葵依の家ってアパートじゃなかった?」 「じ、じつは」  葵依は言い淀んで言葉を区切りながらも、どうにかして自分の状況を説明した。  電車で痴漢に遭って、アパートに犯人が待ち伏せしているといけないという理由で壱のマンションに身を寄せていることを万里に説明する。  万里は目を見開いて驚きながらも、次第に表情を引き締め葵依の話に真剣に耳を傾ける。その顔には怒りと心配の色が滲んでいたが、彼女の視線は葵依をしっかりと捉え、葵依の拙い話を真剣に聞いてくれた。
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