第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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 万里は、葵依がほっとした表情を浮かべた瞬間を見逃さなかった。けれど、それについては敢えて追及せず葵依の背中を優しく擦った。   「壱さんのマンションに荷物を取りに戻ったら、女性が家の中にいて……」  葵依はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。葵依はその指先が頬の痛みに触れ気持ちを確かめるように、また軽く頬を撫でた。 「彼女は自分のことを壱さんの幼馴染で、婚約者だって名乗ったの。しかも……妊娠してるって」  万里は小さく息を呑む。「……その人に殴られたの?」  葵依はコクッと頷き、唇を噛んで続きを話した。 「ロビーで何度も会ってた人だった。『エレベーターに乗せてほしい』って頼まれたことが何度もあるけど、勝手にできることじゃないから断ってたの。でも、その人が言ってたんだ。『このマンションに婚約者が住んでいて、彼の子を妊娠してる』って……」  葵依はその人が壱の婚約者だなんて、考えもしなかった。でも、それだけじゃなかった。葵依は一瞬ためらってから、万里に視線を戻し苦しげに続けた。 「……それで、その人がこう言ったの。『家の鍵とエレベーターのカードキーは六花さんからもらった』って」 「六花さん、って金城さんのお姉さんの名前だよね?」  葵依から壱の姉の話を聞いていた万里は、六花の名前に聞き覚えがあって葵依そう訊ねた。葵依は頷き、複雑な思いで話を続ける。 「家族公認の仲だって言ってた──……」 『毎日、毎時間、毎分毎秒、幸せにする』 『結婚しよう』  なんて隙を見つけては口にしていた壱の言葉の数々が脳内で再生され──。  その思い出が胸に浮かび上がるたび、葵依の胸が締め付けられるような痛みに変わっていった。ふと、その言葉に含まれていた温かさが薄れ、冷たい嘘にしか思えなくなってくる。 (……嘘吐き)  葵依は、心の中でそっと呟く。自分に向けられていた筈の言葉が、今は空々しく響くだけだった。胸の奥がひやりと冷たく、何かがぽっかりと空いたような虚無感に包まれていく。 「その人が……壱さんの婚約者だなんて、まさか考えもしなくて……だからあの時、壱さんの部屋に居たのを見て、本当にびっくりして……」  葵依の声が震え始めると、万里は黙って彼女を見つめ、そっと肩に手を置いた。その一方で、どうしても納得できない何かを感じたように、万里は疑いの目を向ける。   「でも、それって本当なのかな?」  葵依は少し驚いたように万里を見上げ、「え?」とだけ返した。 「あんなに葵依に惚れ込んでいる金城さんに、婚約者がいるなんて変じゃない?」 「……ヘン?」 「焼肉屋で、金城さんは葵依のことをずっと見てたよ。焼肉を食べている葵依を見つめながら、『かわいい』ってずっと連呼してた」  葵依は驚いて目を開いた。 「気付いてなかったのは、焼肉に夢中になってた葵依だけだよ」  万里の言葉に、葵依はふっと顔を赤らめる。確かに、あの時は焼肉に夢中で周りなんて見えていなかった──壱が自分に向けていた愛情にさえ気付かずに。   「だ、だって……人生初めての焼肉だったんだもん、夢中にもなるよ……」  葵依がそう言うと、万里は優しい目で彼女を見て、「初めてだったもんね。でもさ、そんな葵依を見て『かわいい』って連呼してた金城さんが、裏で婚約者といるなんて、私にはどうにも信じられないんだよね」と続けた。 「でも……お義姉さんから鍵とカード―キーをもらった、って……」 「葵依が一緒に住んでるって知ってるんだよ? 今まで渡してもらえなかったのに、急に渡すなんておかしくない?」 「そうだよね……私が壱さんと一緒に住んでるって、お義姉さん知ってるのに……」  万里の疑念に、葵依も思わず目を伏せ考え込んだ。万里の言う通り、彼女も壱と同じマンションに住んでいることを六花は知っている筈なのに。  (……壱さんを信じよう)  そう心の中で呟いたが、その言葉が虚しく響くのを感じた。壱を信じているつもりでいながら、それはただ「信じたい」と願っているだけではないのかという思いが、ふと心の奥で囁く。自分の中で壱への疑念が少しずつ形を成していることに気付くと、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みに包まれた。 (私が信じたいって、ただそう思ってるだけ……?)  自分の気持ちが弱く揺らいでいることに気付いた瞬間、無理に信じようとする自分の姿が脆くも儚く見えた。   万里は、沈黙の中で迷いの色が浮かぶ葵依をじっと見つめてから、葵依にそっと問いかけた。 「葵依は、壱さんのことをどう思ってるの?」 (どう、思っている……?)  私は、壱さんのこと──……。  その問いに、葵依は一瞬戸惑い、言葉に詰まる。  しかし、静かに視線を落としながら、小さな声で「好き」と呟いた。自分の心から出たその言葉に瞼を閉じ、唇を引き結ぶ。 「……好き」  今度は噛み締めるように呟いた。   (でも) 「私の我儘で……壱さんの未来を台無しにするわけにはいかない」  その思いが胸を締めつける。  葵依は壱のことを「好き」だと認めつつも、不安を万里に吐露した。  壱への想いは強くても、彼の道を奪ってしまう自分が許せなかった。彼が仕事が好きだと知っているからこそ、彼の未来が、どれだけの価値があるかを知っているから──それに、SSIの存在だってそうだ。私の我儘だけでが潰していいようなものではない。  万里は葵依の横顔をじっと見守っていた。葵依の瞳は揺れながらもどこか真剣で、眉を少し寄せて切なげに唇を噛み締めている。その表情は自分の感情を押し込めようと必死で、壱を思う気持ちと自分への苛立ちが入り混じった複雑さを湛えていた。  万里はその横顔に、少し胸が痛むのを感じた。葵依がこれほどまでに壱のことを真剣に考えている姿を見て、「好き」という想いがどれだけ深いものなのか、痛いほどに伝わってきたからだ──けれど同時に、自分の幸せよりも壱の将来を優先しようとする葵依が、少し哀れにも思えてしまう。 「これからどうするの?」  万里は、そっと息を吐き出すと優しい声で訊ねた。  葵依は答えを探すように俯き、しばらく黙っていたが、   「……マンションに戻って、荷物をまとめなきゃ。あの場所に置きっぱなしにしているものが、まだあるから……」  やがて小さくそう呟いた。  壱と共に過ごした部屋に、まだ自分の生活の一部が残っている。葵依はそれらを取りに行く覚悟を決めた様子だった。 (でも、あの人がまだお家にいるかもしれない)  彼女を思い出して、葵依は無意識に殴られた頬に触れる。 「じゃあ、私も一緒に行くよ」  という、明るい声が聞こえて葵依は顔を上げた。万里を見つめると、彼女はニッと笑顔を向ける。 「葵依、叔父さんの家に戻りにくいなら、私の家にいてもらっても全然いいよ」  葵依は驚いて万里を見つめる。思いがけない提案に一瞬戸惑い、すぐに「でも……それだと迷惑じゃない?」と心配そうに訊いた。自分の為に他人に負担をかけるのが申し訳なく思えたのだ。  万里はそんな葵依の不安を感じ取ると、軽く笑って肩を竦める。 「お母さんからOKもらってるから大丈夫だよ。それに、葵依のことだからお父さんもきっと歓迎してくれるって」  と自信を持って答えた。  葵依は暫く悩んだが、万里の温かい笑顔を見て、少しだけ安堵しながら「ありがとう、万里……」とお礼を言った。 「マンションに例の女がまだいたら、私が追っ払うから! 安心して!」  万里が勢い良く言うと、葵依は驚いたように目を見開き、少しの間、きょとんとした表情を浮かべた。しかし、万里の真剣で頼もしい様子に、思わず笑みが零れる。葵依が見せた今日一の笑顔で、万里は内心安堵した。  葵依は目を細めて万里を見つめ、ふと肩の力が抜けるような感覚に包まれる。万里の言葉と気持ちが、葵依にとって救いだだった。  万里も少し照れたように鼻先を掻き、 「ま、友達が困ってたら放っておけないしね」  と肩を竦めて見せる。その姿に葵依は再び笑顔を浮かべた。 (万里がいてくれて、よかった)  胸の奥から温かな気持ちが湧き上がり、涙がまた滲みそうになるのをぐっと堪える。万里の頼もしさと優しさが、今の自分を支えてくれていることに改めて気付き、感謝の想いがじんわりと広がっていく。  葵依はほんの少しだけ肩の力を抜き、安らぎを感じながら、万里に向かって微笑み返した。  葵依は静かに息を吸い込んだ。 「ありがとう、万里……」  その一言に、万里はにっこりと笑って応えた。そして、お互いに小さく頷き合うと、葵依のアパートに向かうため、二人は玄関へと足を進めた。  外は、あの土砂降りが嘘のように澄み切った青空が広がっていて強い日差しが二人を照らした。  
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