第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

140/146
前へ
/452ページ
次へ
 葵依と万里は、壱が住む高層マンションに向かった。エントランスを通り、エレベーターで壱の階へと上がると、緊張感が少しずつ増していくのが分かる。万里は、葵依の肩にそっと手を置き安心させるように微笑んで見せた。  葵依が玄関ドアを開けると、万里は息を呑んだ。  廊下には、葵依の私物が無造作に散らばっていた。靴や服、鞄、そして身の回りの細々とした物たちが床を埋め尽くし、まるで誰かが意図的に放り出したかのようだった。驚きと動揺で、万里は一瞬声を失い、その場に立ち尽くす。 「これ……全部、葵依のだよね?」  葵依の隣で、万里はやっとの思いで口を開いた。  その問いに、葵依は小さく頷きながら目の前の光景を受け入れるように、ゆっくりと散らばる荷物に目を落とした。  二人は、散乱した荷物を避けるようにしながら、慎重に廊下を進んだ。ガラスの破片がきらきらと床に散らばっているのを見つけ、葵依が低い声で万里に言った。 「床にガラスが落ちてるから、気を付けてね」  万里が頷き足元に気をつける中、葵依の表情が曇る。ふと、目にした無惨な光景が頭を過った──大切な母親の遺影が、無造作に床に転がっていたあの瞬間。  心の奥がぎゅっと痛むようだった。母親の笑顔の写真が、こんなにも乱雑に扱われた事実に、葵依は言葉にならない怒りと悲しみを感じ、顔に陰りを浮かべた。  そんな彼女の様子に気づいた万里が、そっと彼女の背中に寄り添うように歩く。その温かさに葵依は僅かに救われるような思いで、再び歩みを進めた。  二人は部屋の中を見渡したが、壱の「婚約者」と名乗る例の女性の姿は見当たらなかった。 「……いない、みたいだね」  万里が静かに呟く。葵依は、万里の言葉に頷いて、彼女の姿が見えないことに心の奥でほっと胸を撫でおろした。  葵依はふと視線を落とし、足元に散らばる自分の服や私物に目を向ける。自分の荷物がぞんだいに扱われているのを目の当たりにして、胸が息苦しさに襲われた。 (でも、このままにしてはおけない)  葵依は決意するように、深呼吸を繰り返す。さて、洋服を拾おうとしゃがみ込もうとした時、背中に温かな感触があって背後を振り返った。 「服は私が拾うから、大丈夫だよ。貴重品は私が触るわけにはいかないから葵依は貴重品を取っておいで」    息を詰めたように立ち尽くす葵依の様子に気付いた万里が、葵依にそう声を掛けた。  葵依は万里の気遣いに気付いて、心がじんわりと温かくなるのを感じる。自分の重荷を少しでも軽くしようとしてくれる万里の言葉に、葵依は「ありがとう」と小さく頷き、万里の言葉に甘えることにした。  万里は、ふと何かを思い出したように顔を上げ、葵依に向かって軽く声を掛けた。 「例の物も忘れずにね」  その言葉に、葵依は一瞬驚いたように顔を上げるが、すぐに思い当たって小さく頷いた。万里の言う「例の物」──それは、茂との血縁を示す為に保管しておいた大切な証拠──DNA鑑定書、そして葵依の入学式の後に撮った写真。写真には、葵依と茂、晶子、楓たちがまるで家族のように並んで写っている。更に、高級寿司屋のレシートと防犯カメラに映った葵依と茂、晶子と楓が寿司屋から出てくる防犯カメラのコピーだ。  これらは全部、高校一年生の頃に一木に茂と歩いているところを目撃されてパパ活していると誤解されて、その誤解を解く為の証拠品として茂に用意して貰ったものだった。結局、万里の前で書類をぶちまけてしまって彼女から「これは見せない方がいい」と言われ、そのまま葵依が保管していたものだ。  葵依はベッドの下に手を伸ばし、資料が入った茶封筒を取り出した。葵依は手にした「例の物」をじっと見つめる。   (最初は、一木さんに見せるものだったのに)    しかし、叔父である茂が世間に対して自分を「姪」として公表し、噂を一掃する準備をしている以上、今は自分の判断で勝手に動くわけにはいかない。もし一木にこれを見せれば、「一千万」なんて大金を払わなくて済むかもしれない。それに、水野の「児童福祉法違反」の濡れ衣を晴らせるかもしれない──……。  けれども、茂の計画がある以上、葵依自身の為だけにこの証拠を使うのは許されないことだと感じた。  封筒をそっとバッグにしまい込み、葵依は再び背筋を伸ばして、心を落ち着けるように息を吐いた。    封筒をそっとバッグにしまい込み、葵依は再び背筋を伸ばして、心を落ち着けるように息を吐いた。 「……やっぱり、一木さんには言わないでおこう」  そう呟いた葵依は、ベッドの下に隠してある大切な通帳を探し始めた。手探りで床をなぞるが、袋が見当たらない。葵依は焦って視線を上げると、ベッドの上に青色の巾着袋が無造作に置かれているのを見つけた。 (どうしてこんなところに……?)  しかも、袋の紐が緩んでいるようだ──葵依は訝し気に巾着袋を持ち上げると驚きと不安が一気に押し寄せ、葵依の心臓が早鐘のように鳴り始めた。普段ならしっかりと結んで隠していた筈の巾着袋の紐が緩み、そして中身が空っぽだなんて……。 (誰かが触ったの?)  不安に駆られた葵依は、部屋中を必死で探し始めた。床を這うように見回し、引き出しや棚の隙間も確認するが、どこにも通帳の姿はない。失望と焦りで手が震え、思わず青褪めた顔で立ち尽くしてしまう。  服と教科書を拾い終えた万里がちょうど部屋を覗き込んできて、葵依の表情に気付く。 「どうしたの、葵依?」と声をかけてきた。 「……通帳が、ないの……」  葵依は、呆然としたまま震える声で答えた。  その一言で万里も事態を察し、急いで葵依と一緒に部屋の中を探し始める。しかし、どこにも通帳は見つからない。廊下まで出て、散らばっていた荷物の中を丁寧に探してみたが、やはり通帳はなかった。  二人が顔を見合わせ、不安が募る。ふと、葵依の脳裏にあの女性のことが浮かんだ。 「もしかして……あの女性(ひと)が……?」  葵依は小さく呟き、不安と疑念が胸に広がった。 「警察に連絡しよう」  と万里がスマホを取り出す。しかし、葵依はすぐに制した。 「待って……壱さんに迷惑をかけたくない」  葵依は、思い詰めたように眉を寄せた。壱のマンションで全く他人の自分の通帳がなくなったと伝えれば、疑われてしまうかもしれない。 (壱さんにまで、迷惑をかけたくない)  ──その思いが葵依を強く縛っていた。    そんな葵依を見て、万里は少し考え込み、「じゃあ、お父さんに連絡してみる」と提案した。万里は、壱と葵依が交際していることを知っている為、頼りになるのは父親だと判断したのだ。  万里はすぐに父親に電話をかけたが、あいにく公務中で電話には出なかった。仕方なく、メッセージで状況を伝えることにし、葵依の不安げな顔を見つめながら送信ボタンを押した。    葵依は震える手で頭を抱え、目を伏せた。母親が自分の為に貯めてくれたお金、そして母の生命保険金に、自分自身が少しずつ貯めてきたお金。それら全てが入った通帳が消えてしまったのだ。ショックと悲しみが押し寄せ、胸が締めつけられる。 「……アパートに帰りたい」葵依は弱々しく呟いた。  葵依がふと視線を落とすと、手の中で震えている自分に気付く。母親と一緒に暮らしたあのアパート、愛と平和に満ちた小さな居場所。大好きな母親の思い出が詰まった場所──葵依にとってその場所は、安らぎの場所──……。 「……アパートに帰りたい」  葵依はもう一度、小さくそう呟いた。  万里はそっと彼女の肩に手を置き、「わかった」と静かに言った。
/452ページ

最初のコメントを投稿しよう!

300人が本棚に入れています
本棚に追加