第4章:私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。

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 電車で葵依のアパートへ向かう間、膝の上のリュックを抱き締めたまま、葵依は黙り込んでいた。リュックには、壱のマンションから持ってきた自分の服だけが入っている。茂たちが買ってくれた服は入りきらず、仕方なく置いてきてしまった。その時、心のどこかで、自分が何か大切なものをいくつも捨ててしまったような気がして、じわりと胸が痛む。 「私も葵依のアパートに泊まる」  と、万里は静かに切り出した。葵依をこのまま一人にさせたくなかったのだ。気丈に「大丈夫だよ」と微笑もうとする葵依だが、どうにも上手く笑えない。表情筋がこわばっているのを自分でも感じ、隣に座る万里の眉間に皺が寄るのが見えた。 「葵依、無理しないでいいんだよ」  万里はそっと声を掛けた。  その優しい言葉が胸に沁みて、葵依は一瞬俯いたまま何も言えなかった。今まで支えてきたものが全部、ぽろぽろと崩れ落ちてしまいそうな気がして、どうにも心の整理がつかない。 「うん、ありがとう……」  辛うじて答えたものの、声は思った以上に掠れていた。   「荷物、持ってくれてありがとう」  教科書と参考書と辞書がパンパンに入った学生鞄を運んでくれている万里に葵依は礼を言った。 「腕力には自信があるの」  万里はにっと笑って力瘤を作って見せる。その姿に、葵依は笑顔を浮かべた。  二人は電車を降りて葵依が生まれ育ったアパートへ向かっている。だからだろうか、葵依に笑顔が戻ってきて万里はほっと胸を撫で下ろした。  二ヶ月振りのかつての葵依の城──中信四丁目のシラサギ荘102号へ向かうこの道、見慣れた風景が少しずつ目に映るたびに、心の奥から懐かしさがじわじわと蘇ってきた。  何もかも変わらないようで、あの頃の自分がまだそこにいるような気がして、葵依の足取りはどこか軽くなる。こんな状況であっても、帰る場所があるというだけで不思議と元気が出てくるのだ。    だが──葵依の足が突然、ぴたりと止まった。 「どうしたの?」  万里は不思議そうに問いかけるが、葵依は返事をしない。まるで声を掛けられたことさえ耳に入っていないかのように、ただ視線を前に据えたまま呆然と立ち尽くしていた。万里がその顔を下から覗き込むと、葵依はまるで透明な何かに囚われたかのように動かない。  葵依の視線を辿ると、そこには「売地」と書かれた看板が、空虚な空き地に立っているだけだった。 「どうしたの?」  万里はもう一度問いかけるも……葵依からは返事はなかった。  万里の声が再び耳に届いても、葵依は返事をすることができなかった。自分が立ち尽くしているその場所が信じられないかのように、目の前の光景にただ釘づけになっている。見慣れたアパートの筈だった──その一角に、温もりの記憶や懐かしさを詰め込んだ「シラサギ荘」が存在していた筈なのに。  しかし、目の前にあるのは、ただ無機質な「売地」の看板と更地となった空き地だけだった。風に揺れる看板が音もなくカタカタと鳴り、葵依の胸の奥が静かに崩れていくのを感じた。幼い頃から積み重ねた思い出も、母親と過ごしたひとときも──今、目の前で全てが消えてしまっている。  まるで、彼女の過去そのものがこの場所から消されてしまったかのように。 (どうして……?)  二ヶ月前までは確かに存在していたアパートが跡形もなく消えている──心の支えでもあった母親との思い出が詰まった場所がそこにはなかった。  一瞬、場所を間違えたのかと思ったのだが、電信柱の街区表示板のプレートは確かにここの住所を示している。そもそも、十七年間過ごしていたアパートに続く道をたった二ヶ月離れていただけで、間違える筈ないのだ。 「お家が、なくなってる……」  心配してくれている万里に言えたのは、簡潔な言葉だけだった。   「……暫く、一人にして」  万里はその言葉に戸惑いを見せたが、それ以上何も言わず少し距離を置いてくれた。葵依はひとり、かつてのシラサギ荘があった場所を見つめ続けた。 (本当に、帰る場所がどこにもなくなっちゃったんだ)  胸の奥で何かが静かに崩れていく。  壱さんのマンションも、ここも──いつの間にか自分にとって大切な「家」だったものが、全て手の届かない場所へ消え去ってしまった。身体が冷え切ったような虚無感が、重く、押し寄せてくる。  どれだけ見つめても、シラサギ荘が蘇るわけではない。それでも葵依は、その空き地から目を離すことができなかった。母親との思い出も、あの日々の温もりも、この場所からすべて消え去ってしまったことが、現実として葵依の心に突き刺さっていた。  声を上げて泣きたい筈なのに、涙は出ない。まるで心が限界を迎え、痛みすら感じられなくなってしまったようだった。
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